The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

ジャック・ロンドン : バタール

概要 

それは原初的な舞台であり、原初的な場面であった。世界が若く、野蛮だったころに見られたであろう情景。暗い森の中で拓かれた場所、歯を剥いた狼犬たちの輪、中央では二体の獣ががっちり組みあい、歯をぱちんと鳴らしうなり声を上げ、狂おしく跳ね回り、ゼイゼイ喘ぎ、息を弾ませ、悪態をつき、懸命に力を込め、激情に駆られ殺意に包まれて、自然の獣性のままに裂き、破り、爪を立てている。 

ルクレールとバタールの死闘は、ほぼ五分五分だった。手当をした神父は言う。「ですがどうして、あの犬は逃げないのですか?」そして「ではあなたは、なぜあの犬を殺さないのです?」

ブラック・ルクレールがその仔犬と初めて出会ったとき、犬は目に憎しみをみなぎらせていた。その仔犬とルクレールはたがいに歯を剥き、うなり声をあげ、睨み合った。ルクレールはこの仔犬を選び、「バタール」と名付けた。フランス語で私生児・雑種犬を意味する「バタール」は、この悪魔のような素質を持つ仔犬に相応しい名前だった。ルクレールも悪魔のような男だった。「両者は似合いのペアだった」。

ルクレールは、シシリアンオオカミとハスキー犬の混血バタールの生来の邪悪さを助長させるよう育てた。狡猾さと残忍さ、獰猛さを併せ持った見事なまでの悪魔の犬に成長させた。それがルクレールの目的だった。いつか、自分を殺そうとする犬を殺すこと。それがルクレールの愉しみであった。「愛情では決して結びつけられない強さで、憎しみが彼らを結びつけていた」。ルクレールとバタールは互いの互いへの暴力で結びついていた。犬もそれを理解していた。だからルクレールはバタールを売ろうとしないし、バタールもどんなに飼い主から殴られても逃げ出さなかった。 

ルクレールはしばしば、自分が生命の精髄に対抗しているような気にさせられた。(……)。そんなときルクレールは、等しく不屈なる己の精髄を表明せんと、強い酒、野生の音楽、そしてバタールとともに盛大な乱痴気騒ぎに浸り、己のちっぽけな力を世界に対峙させて、いまあるすべて、過去にあったものすべて、今後あるものすべてに挑むのだった。 

 

感想その他

このジャック・ロンドンの『バタール』は本当によかった。グッとくるものがあった。ここには「憎悪」という人間の言葉で便宜的に表現するしかない、互いの肉体への暴力的衝動に駆られた、いまだ名付けえぬ関係がある。しかもそれが人間と犬の「ペア」なのである。ルクレールはその関係を、産卵する鮭が川を遡上するような不屈な生の精髄に挑み対抗するものだと考えている。 

犬がニタッと歯を剥き出すと、ルクレールもそれに応えてニッと歯を剥いた。 

これが言葉なしで互いを理解する原初的な関係なのだろう。ちなみにバタールの弱点は音楽のようだ。音楽を聴かされると脅え後ずさりする犬の様子がちょっとだけ可愛い。

そして思う。せっかくこういう物語を読んだので、「飼い慣らされたラディカリズム」になぜか付き合わされるバカバカしさに対し、今後はそれを「問うように」頭を擡げ目を見据え唸るバタールの姿を思い出すようにしたい。

 

データ

柴田元幸 訳、『犬物語』(スイッチ・パブリッシング)所収 

 

 

 

 

ダフネ・デュ・モーリア : そして手紙は冷たくなった

概要および感想・その他

ラストの2行を除いて全編、ミスター・X・Y・Zという男性からミセス・Bへ送られた手紙という形式になっている。

ミスター・X・Y・Zは、仕事の都合で中国に住んでいるのだが、6カ月の休暇でイギリスへ帰って来た。中国で彼はミセス・Bの兄と親しくしていたという。そこでお近づきに、とミセス・Bに手紙を出す。快い返事をもらったミスター・X・Y・Zは、それから情熱的な文章を綴った手紙を次々とミセス・Bに送りまくる。最初の日が6月で、7月、8月へと日が経つにつれて、ミスター・X・Y・Zのテンションは高くなり、そのテンションの高さから、二人の間に何があったのか、二人の間がどう進展しているのかが、それとなく、どころか手に取るようにわかる(その描き方、仄めかし方が、すごく上手い。さすがダフネ・デュ・モーリア)。

そして8月の後半から9月の後半にかけての1カ月間、ミスター・X・Y・Zとミセス・Bはお忍びで旅行に出かけ二人だけの時間を過ごす。

旅行から帰って来てからのミスター・X・Y・Zのミセス・Bへの手紙は、次第にテンションが下がっていく。ミスター・X・Y・Zが、どのようにミセス・Bと距離を取ろうかと画策しているのが手に取るようにわかる。ミスター・X・Y・Zの冷めた文章から二人の関係がどうなっているのか、とくにミセス・Bの精神状態がどうなっているのかがそれとなくわかる。

僕の動きをスパイするのはやめてもらえるとありがたいんだが。 

ミスター・X・Y・Zがミセス・Bに対していかにうんざりしているか──それをいかにして無礼にならないように努力して書いているが、実際は「もう君は飽きた」ということをミセス・Bにそれとなく知らせようとしていることが手に取るようにわかる。そしてミセス・Bが「もう君には飽きた」というミスター・X・Y・Zの真意を、本当は理解できるのに、そのままの言い方では理解できない振りをして、「男の下劣さ」を最大限引き出そうとしていることを、ミスター・X・Y・Zの文章から読み解くこともアリだと思う(ここらへんの微妙な描写、さすがダフネ・デュ・モーリアだけあって、ときどきはっとさせられる)。 

これで真実がわかったろう。さようなら。

 

手紙の日付が載っているので、ミスター・X・Y・Zの方は、最初から6カ月の休暇を計画的に消化しているのがわかる。ミスター・X・Y・Zはプレイボーイで残酷でエゴイストだというのはわかる。ただ、そんなミスター・X・Y・Zにいいようにされ、精神的にも追いつめられているように考えられるミセス・Bに作者は哀れな被害者として同情しているだろうか? 固有の男女の名前ではなくミスター・X・Y・Zとミセス・Bとわざわざ記したのは、やっぱり何か意味があるんだろうな。

 

データ

務台夏子 訳、『人形 デュ・モーリア傑作集』(東京創元社)所収 

 

 

小酒井不木 : ある自殺者の手記

概要

加藤君、僕はいよいよ自殺することにした。この場合自殺が僕にとって唯一の道であるからである。 

自殺を決意した「僕」は、その経緯を加藤君という友人らしき人物に宛てた手記として書き残す。手記の中で僕は、自殺することがいかに理にかなっており、当然の成り行きだと、加藤君に説明する。「いうまでもなく」僕の自殺の動機は失恋である。なぜなら、僕と加藤君の二人は、一人の女性、看護師の恒子さんに恋をし、恋争いの結果、加藤君が恒子さんと結ばれ、僕は敗北したからだ。と、そのように、僕の手記は、加藤君以外の人が読んでも事情を把握できるように、僕と加藤君の間にあるはずの暗黙の了解を極力排したものになっているのが特徴である。
手記の前半部分をまとめると、
僕は自殺する。僕の死は自殺以外の何物でもない。
自殺の動機は失恋である。それ以外の解釈は認めない。
僕と加藤君は看護師の恒子さんをめぐって争っていた。
僕は加藤君と同じ医師で同じ病院に勤めている。
僕も「加藤」という名前である。 

して見ると自殺を決心したものの心持ちは、自殺を決心しないものには到底理解し能あたわぬものだといえる。まったく自殺を決心したものの心持ちは、自殺者のみの知るところであって、世の自殺者はこの点に大おおいに誇りを感じてしかるべきであろう。 

 

感想その他

小酒井不木は初めて読んだ。「不健全派」と呼ばれるに相応しく、理路整然と自分の自殺の正当性を説いていながら、肝心のところが極めて稀な偶然に頼っていることや、発狂せずに解決する道があるとすればそれは「自殺には道づれが必要」だという結論を導くところなど、たしかに読んでいてどこか据わりが悪く、不安にさせられた。いったい「僕」が加藤君と同じ「加藤」という姓ではなかったら、こんな悲劇は起きなかったのに、と残酷な神の采配を目の当たりにして、なすずべもなく立ちすくんでいる読者も多くいるはずだ。

ただ、それなりの推理小説の読者だったなら、この理路整然と書かれたはずの手記に、どこか据わりが悪く不安にさせられるのは、そこに微妙な論理の飛躍があり、その微妙な論理の飛躍の、その微妙さが、推理小説のあるパターンに則っているだろうと直感するからかもしれない。ニコラス・ブレイクセシル・デイ=ルイスの『野獣死すべし』の手記なんかを思い出して。そして思う。これをもっと推理小説的に読めないか、と。
例えば自殺を決意した「僕」が、自殺方法についてあれこれ考えていたら生への執着に捉われ、その問題解決が自殺の道連れの必要性だという結論に至ることに、なんか引っ掛かる。この微妙な論理の飛躍の、この微妙さが気になる。逆に考えれば、もし死体が3つ発見され、すぐそばにこの手記があったら、1人が2人を殺して自殺した、と見なされるだろう(現代的な捜査をひとまず置いておいて)。とくに気になるのは、手記の中で「僕」が、「僕」と加藤君の筆跡は似ている、ほとんど同じだと記していることだ。二人の人物の筆跡が似ているということは、非常に癖のない、例えばペン字でもやって「手本を真似た」ような筆跡か、あるいは逆に、非常に癖があり(それゆえ真似やすい)、それを片方がもう一方を真似ているかのどちらかだと思う。
そう考えると、「僕」でも加藤君でもない別の第3者が、「僕」か加藤君の筆跡を真似て、この手記を書いた可能性も排除できない。その第3の人物は、「僕」か加藤君か恒子さんのうちの1人、あるいはそのうちの2人、あるいは3人全員を殺したかったのかもしれない。
そのためにこそ、第3の人物がこの手記を書いたのだろう。あれほど失恋による自殺であるという時代錯誤的な動機(ウェルテルの真似?)を強調していたのは、これで説明がつく。あるいは途中まで「僕」が書いた手記を後半部分を改竄して利用したのかもしれない。そうすれば前半の理路整然とした部分と後半の部分の齟齬が説明できる。筆跡は真似できても、微妙な論理の飛躍は、前半と後半で別人が書いたと想定すれば、これもこれで説明できる。そして、その場合、個人的な推理では、恒子さんが怪しいと思う。

 

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:ある自殺者の手記

G・K・チェスタトン : 恋人たちの指輪 ~ 『ポンド氏の逆説』より

概要

ポンド氏の友人ガヘガン大尉がクローム卿主催の晩餐会に招待された。このクローム卿の晩餐会は、クローム卿夫人主催のカクテル・パーティの後にその続きとして設定されたもので、数人の男性客のみが招待された。

晩餐会に招待された数名の男性客は「選り抜きの面々だったが、選ばれたようにはとても思えなかった」とガヘガン大尉は振り返る。どういう基準で、これら男性客が選ばれたのか?

ガヘガン大尉は晩餐会の様子をポンド氏と同じく友人のウォットンに話す。クローム卿は大きな指輪を招待客たちに見せた。ルビーが嵌められ指輪は一族の歴史と関りがある由緒あるものだという。クローム卿は「みなさん指輪をごらんになりましたか」とわざわざ客たちに訊いてまわる。

ガヘガン大尉の話をそこまで聞いて、ウォットンは「この話なら知っているよ」とまるで学校の生徒のような感じで言った。あれだろ、その大事なクローム卿の指輪が晩餐会の最中に紛失してしまう、そして、招待客全員が身体検査を受けることになるが、その中の一人が検査を拒む、それは……。

「あたってる」とガヘガン大尉は応える。だが、ちょっとばかし違う。

身体検査は全員が受けた。誰も拒まなかったし、みんな自ら検査を買って出た。

にもかかわらず指輪は見つからなかった。

その後コーヒーの時間に、クローム卿が突然、このコーヒーには毒が入っているから飲んではいけない、と大声を上げた。

しかしその忠告を無視し、ピット=パーマーという外交官がコーヒーを飲んで、死んでしまった。

なぜピット=パーマーはクローム卿の警告を無視し、コーヒーを飲んだのか?

ポンド氏は言う「ピット=パーマーは指輪を盗んだりしなかった」

 

感想その他

ネタをバラして、この華麗なる逆説をまるで自分が考えたかのように得意げに書きたい誘惑に駆られるが、それをしないで、以下のポンド氏の説明を拝聴しておくに止める。 

いいかね、問題はこういうことなんだ──現実の出来事が小説を思い出させると、我々はその小説についてすべてを知っているものだから、現実についてもすべて知っていると無意識に思い込んでしまう。読み慣れた作り話の筋道だか紋切型だかに嵌まり込んで、その筋道が、作り話の中でのように、前後につづいていると考えずにはいられない。物語の背景が全部頭にあるものだから、じつはべつの物語の中にいることが信じられない。我々はつねに作り話の中で仮定されていることを仮定してしまうが、それは真実ではないんだ。間違った前提を正しいと思い込んだら、間違った答を出すばかりでなく、間違った問いを発する。 

 このポンド氏の言っていることはすごく重要だと思うので強調しておいた。

 

データ

南條竹則 訳、『ポンド氏の逆説』(東京創元社)所収  

 

 

関連エントリー

 

 

 

A・M・ホームズ : リアル・ドール

概要

書き出しはこう。

僕はいまバービー人形とつきあっている。週三回、妹がダンスの教室に行っている隙に、バービーをケンのところから連れ出す。まあ、いわば将来にむけての予行演習だ。 

 登場「人物」は、ほぼこの4人に限られる。語り手の少年「僕」、「僕」の妹のジェニファー、バービー人形、そしてケン人形。それにちょっとだけ「僕」の両親が出てくる。

最初に誘ったのはバービー人形の方だった。まるで妹のジェニファーの友達のように僕に声をかけ、僕もそれに応え、コーラを飲みながらデートをする。僕はバービー人形にケン人形との仲を訊く。「彼とはだたのお友達よ」とバービー。僕はそれを知ってバービーと付き合うことになる。

ある日、バービー人形が足の痛みを訴えた。理由を尋ねると、ジェニファーがバービーの足を噛むのだという。僕はバービーの足を優しく介抱するように口に入れ、吸う。僕もバービーも気分が乗ってきた。僕とバービーは合意の上、セックスをする。

一方で僕は、ケン人形のことも気になっていた。バービーと二人して、ケンの男性能力について冗談を言っていたが、以前からバービーを取り合うライバルとは別の「男と男のお遊び」に興味を覚え、それが発展していく。「ケンとたったの一度、ちょっとああいうことになったってだけで、もう将来ゲイとして生きていくかどうか決めなくちゃいけないんだろうか」。ケンもジェニファーから「虐待」を受けていた。

ケンの介抱を済ますと、バービー人形が僕に「ファックして」と言ってきた。僕はバービーの身体を点検する。下品な落書きがされており、ナイフによる傷もあった。 

「どうしてこんなことされて黙っているんだよ?」

「だってあたしはジェニファーの物だから」バービーがあえぎながら言った。 

 

感想その他

題材が題材だけど、この作者は生真面目だな、と思った。それは人形とのセックスを人形とのセックス以上でも以下でもなく、つまり人間と人間のセックスとの「違い」を「僕」に考えさせたり語らせたりはしていないからだ。「僕」はバービーとのセックスによって男性としての自身をもち、ケンとのセックスによって自分がゲイなのではないかと思う。対人間との行為なしで性的経験が語られるし、語り得ることができるように描いている。「人形愛」というものではなく、「人形愛」しかないので、そこには異性の人形か、同性の人形かという問題しかない、みたいな感じになっている。そういう視点で一貫しているし、そういう制約の下での性行為を含めた「人間関係」を描いているので、題材が題材だけど生真面目な印象を受けた(だから、妹ジェニファーの人形への乱暴な扱いは「僕」には「虐待」に映る)。その分、「僕」がバービーへのプレゼントを買いにトイザラスに行くところは、ちょっとくど過ぎる気がしないでもないが。

それと「僕」のバービーとの初体験の部分を読んで、イアン・マキューアンの『自家調達』を思い出した。こういう題材だし、作者のA・M・ホームズにはイアン・マキューアンの影響があるのかもしれない。

 

データ

岸本佐和子 編訳『変愛小説集』(講談社)所収 

変愛小説集 (講談社文庫)

変愛小説集 (講談社文庫)