The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

G・K・チェスタトン : 黄色い鳥 ~ 『詩人と狂人たち』より

概要

なぜ、ロシア人の亡命科学者は下宿先の家の窓をすべて開けるのか?

そのことについて医師ガースらが訝っているときに、画家であり詩人であるガブリエル・ゲイルはこう言い放つ。「君は二等辺三角形だったことがあるかい?」

 

感想その他

G・K・チェスタトンが探偵役であるガブリエル・ゲイルの言動を通して読者に指し示す推論法は次のようになるだろうか。

狂人になることによって、狂人の論理を手に入れる。そうやって獲得した狂人の論理を使用し、狂人のように推論し、狂人が引き起こした事件を読み解く。

これは次のように言い換えられるかもしれない。狂人の論理を手に入れていない者は、狂人ではない。したがって狂人が引き起こした事件を読み解けないのは、狂人のように推論できないからだ、と。

しかし、それでは、あるいはそのままでは、一般の読者はガブリエル・ゲイルの推理自体をも理解できないかもしれない。チェスタトンはこの困難を承知していたのか、微妙な修正めいたものを施す──それは文字通りのトリックでもあるだろう、つまり、ずるいという。

ガブリエル・ゲイルは、自分のような「自分が狂っていることを知っている」狂人と、例えばこの物語におけるロシア人科学者のような「自分が狂っていることを知らない」狂人を区別して、「狂人というのは、道に迷って帰れない人間だ」と言う。つまりガブリエル・ゲイルは「有難いことに、わが家へ帰ってくる来る道をたいてい見つけることができる」類の狂人だ、と。すなわち狂人の世界と正気の人の世界があり、ガブリエル・ゲイルは、そこを行き来できる。それによって探偵は、正気の言葉によって、狂気を語ることができる。 

『黄色い鳥』において佳境を迎えるのは「君は二等辺三角形だったことがあるかい?」という狂気の言葉が、正気の言葉で説明されるところだ。ガブリエル・ゲイルは、前述のとおり、狂人になって、狂人の立場から、狂人であるロシア人科学者の意図を読み解く。

ゲイルは、窓を開けることによって、黄色い鳥(後にカナリアであることがわかる)が鳥籠から放たれたことに注意を促す。鳥籠から鳥が放たれることは「自由」を意味する。ただし、ロシア人と「似て非なる狂人」であるゲイルは、森の中で黄色い鳥が他の鳥たちに襲われるのを見ていた。

同じ手法によって、ゲイルは、なぜ金魚鉢から魚が飛び出ていたのかを読み解く。

それは自由のためである、と「こちらへ帰って来た」ガブリエル・ゲイルは言う。かつてシベリアの刑務所から脱走したロシア人科学者は『自由の心理学』という著書を書いていた。 

鳥を自由に放つことは必ずしも親切なことだろうか? 自由とは、正確に言うと何なんだろう? それはまず第一に、ある物が自分自身である能力に違いない。ある点で、あの黄色い鳥は籠の中で自由だった。独りでいる自由があった。自由に歌うことができた。森の中では、あいつの羽は千々に裂かれてしまうだろうし、あいつの声は永久に詰まらされてしまうだろう。そこで僕は考えはじめた──自分自身であること、すなわち自由とは、それ自体制限なのだとね。我々は脳や身体によって制限されている。もしも限界を突き破ったら、自分自身であることをやめて、たぶん、如何なるものでもなくなってしまうだろう。そう思った時、僕は君にたずねたんだ。二等辺三角形は自分が牢獄の中にいると感じるだろうか、丸い地獄なんていうものがあるだろうか、と。 

 これは「自由」に対するチェスタトンの立場でもあるだろう。だから、何かを「読み解く」場合、そのときに使用される論理というものは、ぶっちゃけた話、正気のものでも狂気のものでもなく、あるいはどちらでもいいのかもしれない。その立場を確からしく見せることができれば。

  

データ

南條竹則 訳、『詩人と狂人たち  ガブリエル・ゲイルの生涯の逸話』(東京創元社)所収