The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

大江健三郎 : 空の怪物アグイー

 概要

アグイーねえ。それはわたしたちの死んだ赤ん坊の幽霊でしょう? なぜアグイーというのかといえば、その赤ん坊は生まれてから死ぬまでに、いちどだけアグイーといったからなのよ。 

 大学生の「ぼく」は、銀行家の息子で前衛作曲家Dの付添いというアルバイトに応募し採用された。28歳の作曲家Dは、あるスキャンダルがもとで妻と離婚し、精神を病み、家に引き籠っていた。Dには木綿地の肌着を着たカンガルーほどの大きさの太りすぎの赤ん坊のようなものが空から降りてくるのが見えるという。空を浮遊し、たびたびDのものへ降りてくるもの、それがアグイーである。アグイーは犬と警官を怖がる、とDの家の家政婦はぼくに教えてくれた。

Dの離婚した妻は、ぼくに言う。彼女とDの赤ん坊が生まれたとき、医者はその赤ん坊は脳ヘルニアだと言った、だからDはわたしたちを恐ろしい災厄から守るために赤ん坊を死なせた、だがその赤ん坊の頭の瘤は単なる畸形腫だった。

それ以来、Dはアグイーの幻影を見るようになった。現実から逃避し、甘えている、と別れたDの妻は言う。Dは積極的に生きることを拒否した、と。そういえばDも自分は現在の《時間》に生きていないと、ぼくに語っていた。 

浮遊しているものは、しだいに、加速度的にどんどんふえるよ。ぼくはぼくの赤ん坊の事件以来、その増殖をくいとめるために、この地上の世界の現実的な《時間》を生きるのを止めた。ぼくはすでにこの世界の《時間》を生きていないから、新規に見出すものも、見喪うものもなくて、空の高み、百メートルの浮遊状態は変化をおこさないんだ。 

クリスマス・イヴの日、Dは銀座の交差点に飛び出しトラックに轢かれて死ぬ。それは自殺のようにも見えるし、アグイーを助けるためだったようにも「ぼく」には思える。

 

感想その他

そもそもDは何のために「ぼく」を雇ったのか? Dは自殺するつもりで、離婚した妻やかつての情人との関係を整理し、自分の作品の楽譜をすべて焼き、彼にとっての懐かしい場所を訪れるための案内人として「ぼく」を雇ったのではないか。自殺の準備のために。「ぼく」は、そう読み解く。

アグイーなるものは、自殺を自殺にみせないためのカモフラージュとして、すなわち、アグイーという存在を救うためにDが道路に飛び出したよう「ぼく」に目撃させるためだけに創造されたもの、ではないか。自分を「狂人」だと証明するために論理的に要請された媒介物だったのではないか。

ここまでくれば(このように読み解けば)、チェスタトンの『詩人と狂人』やブラウン神父もの──例えば死体を隠すために戦争をする──あたりとの親和性が見えてくるかもしれない。「きみは二等辺三角形だったことがあるかい?」と質問するガブリエル・ゲイルを思い出す。そして「ぼく」は瀕死の雇用主Dに向かって「ぼくはアグイーを信じてしまうところだったのです!」と呼びかける。

『空の怪物アグイー』で印象的なのは、雪の降るクリスマス・イヴの日の銀座で、Dがトラックに轢かれる場面だ。作者はジングル・ベルの音楽を鳴り響かせ、横たわるDを「スペインの宗教画みたいなものものしい光が、ぼくの雇用主の血を愚かしい脂のように輝かせ」と描写し、「ぼく」をそれに跪かせる。

 

データ

『空の怪物アグイー』(新潮社)所収 

空の怪物アグイー (新潮文庫)

空の怪物アグイー (新潮文庫)