The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』より第5話、第6話

概要

第5話

ティル・オイレンシュピーゲルの母親は息子が手に職をつけようとしないことを叱る。息子はだんまりを決め込む。が、母親は小言をやめない。「家にはパンがないんだよ」。するとオイレンシュピーゲルは、貧乏人は聖ニコラスの日には立派に断食できるし、食べ物があればいつだって聖マルチン祭のように食べるものだと返す。聖ニコラスの日は節食をする日であり、聖マルチン祭はご馳走を食べる日。だから彼は何も言っていないに等しい。

 

第6話

オイレンシュピーゲルはパンが手に入るように神様にお願いする。すると町で「大いに繁盛している」パン屋を見つける。店の中に入ると、あてずっぽうに領主の名前をあげ、うちのご主人様にパンを届けて欲しい、そこの旅籠に泊まっているから、と注文する。オイレンシュピーゲルは用意しておいた穴の開いた袋にパンを入れさせ、パン屋の小僧に旅籠まで運ばせる。旅籠までの道中で、オイレンシュピーゲルは穴の開いた袋からパンを一つ落とす。そして泥まみれのパンを手にし、これではご主人様に渡せない、だから店に戻って代わりのパンと交換して欲しい、おれはここで待ってるから、と言う。パン屋の小僧が店にパンを取りに行くと、オイレンシュピーゲルはパンの入った袋を持ち脱兎のごとく逃げ去る。言いつけどおりパンを母親に渡し、どうだと言わんばかりのティル・オイレンシュピーゲル

 

感想その他

まず確認しておくことは、ティルがしたことは悪戯ではなく事実としてパンを強奪したということだ。騙し取った、と言ってもいい。では、このとき、ティルは何を考えていたのだろか? どんな論理で動いていたのだろうか?

想像してみるに……ここでのティルの行為=悪戯はパンを母親に渡すという目的に全面的に依存している。目的のために手段を選ばず、というよりも、息子がどういう人物だかおおよそ承知しているのにもかからわず、その手段を的確に指示しなかった母親は、息子が取った手段を批判する権利はもっていない。パンを要求したが、その手段(泥棒のようなことはするな、という禁止項目)まで指示しなかった。そうである以上、ティルはパンを渡すという目的以外の責任を何も取る必要はない。母親はパンを要求する以上の要求はしていない。だから、目的のために手段を選ばすという批判は、ティルにとって正当な批判になりえない。彼は「字義通り」に事を運んだだけだ。ティルは命じられたことをしただけだ。文句があるなら、最初から他人に曖昧さの余地のある命令を下すべきではない。

もっとも、こういうありがちな指摘に対し『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の作者は予防線を張っているように思える。なぜかというとティルがパンを騙し取ったパン屋は「大いに繁盛している」パン屋だったからだ。零細なパン屋で上記のようなことをしたら、それは弱いものいじめになってしまうという批判は免れない。だが、「大いに繁盛している」パン屋とは、現代で言えば営利優先の「資本主義と親和性のある」大企業のようなものだったら、あるいは非正規雇用者を雇い止めしているような「ネオリベラリズムと親和性のある」大学のようなものだったら……ティルのした悪戯にも情状酌量の余地があるのではないか、と読み解ける。

 

データ

阿部謹也 訳、岩波書店 

ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら (岩波文庫)
 

 

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