The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

ジャン・パウル : 天堂より神の不在を告げる死せるキリストの言葉

概要

「イエス様、わたしたちのお父様はいらっしゃらないのですか?」──するとキリストは涙を流しながら答えた。「わたしたちは、わたしもお前たちもみんなみなし子なのだよ、わたしたちにお父様はないんだよ」 

 「わたし」(作者かな?)は、このフィクションはフィクションの大胆さを申し開くのがその目的である、と断り、まず無神論についての「わたし」の主張を簡潔に述べる。この世で無神論者ほどひとりぼっちなものはない、それは父親を亡くした孤児のようなものである、と。

ただ、ここで「わたし」は、「不死の否定」と「神の否定」を区別する。その二つを区別しておいて、「不死の信仰」は無矛盾なく「無神論の信仰」に結びつけることができる、と「わたし」は主張する。これはどういうことなのか? 「わたし」は「わたし」が見た夢でそのことを説明する。

「わたし」は墓地の中で目を覚ました夢を見る。夜の11時。墓はすべて開け放たれていた。二匹のバジリスクが火を噴きながらとぐろを巻いている教会堂がある。よどんだ霧の中、死者の影がその教会堂の中へ入っていく。「わたし」も中へ入る。教会の中で死者たちは……映画のゾンビさながら、あるべき場所に心臓や目がなく、何かちょっとした動きで手がもげたりする。そのような光景を見ても「わたし」は笑わない。なぜなら、そういった死者たちの前に気高い人=イエス・キリストが現れたからだ。

死者たちは単純素朴な質問をキリストに投げかける。「キリストよ! 神はいまさぬのでしょうか?」。するとキリストは単刀直入に答える。「神はいない」と。キリストは、自らの経験から神がいなかったことを死者たちに伝える。すると生者たちの真似をして教会に集っていた死者たちは消え失せ、あたりは空虚になる。キリストの目には涙が溢れ、唯一の生者である「わたし」を認め、次のように言う。 

……不幸なお前たち、死んだ後も傷を塞いではもらえないのだ。ここにひとりの苦患に充ちた生涯を終えた人間が背中に傷を負って身を地下に横たえ、真理と徳と喜びに溢れたより美しい朝の訪れを待望して眠りについたとすると、その死者は嵐の吹きすさぶ混沌の中、永劫の夜半に眼を覚ますのだ──朝も、救いの手も、無限の父もついに訪れはしない! 

 だから、とキリストは「わたし」に言う。まだお前が生きているのならば、「あの方」=神に祈るがよい、そうしないとお前は未来永劫に渡って「あの方」を失うことになるだろう、と。

 

感想その他

一読したとき、ここでのキリストの論法は強引だな、と思った。つまり、死後に神はいない→だから生前、神に祈る喜びを噛みしめろ。

でも、そこで作者ジャン・パウルの前提に気がついた。たしか「不死の否定」と「神の否定」が区別されていたんだった、と。

不死(魂の不滅)を肯定すれば、死後にキリストが「神はいない」と言ってくる。

不死(魂の不滅)を否定すれば、死後のことは考える余地がない。

「不死の信仰」を肯定すれば「無神論の信仰」が導ける。

「不死の信仰」を否定すれば「無神論の信仰」導くことができない。

つまり「不死の信仰」は「無神論の信仰」と親和的である。

でも……親和的だから、何だっていうの?

 

データ

池田信雄 訳、東雅夫・編『幻想小説真髄』(筑摩書房)所収。

なお「天堂より神の不在を告げる死せるキリストの言葉」は長編小説『ジーベンケース』の中の挿話。 

幻想小説神髄―世界幻想文学大全 (ちくま文庫)

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