The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

ヘンリー・ジェイムズ : 教え子

概要

イェール大学を卒業し、その後、英国留学してオックスフォード大学を出たものの金に恵まれないペンバートンは、ニースに住んでいるイギリス人のある婦人から家庭教師の口を紹介される。生徒の名前はモーガンモリーン、11歳。モーガンは、ヨーロッパを転々としているアメリカ人の一家モリーン家の次男であった。

ペンバートンには教え子のモーガン少年が大人びて見えたり子供じみて見えたりする。それと似たような印象は、ペンバートンにとって、モリーン家の人間すべてにおいて認められた。モリーン家の人間はどこか「ちぐはぐ」しているのだ。ペンバートンはモリーン夫人が薄汚れたスエードの手袋をもちながら指には宝石が輝いていることを見逃さない。移動の際の列車も、そのときどきで等級が違う。目抜き通りのアパートに住んでいたかと思うと、その数か月後は三流どころの通りでつつましく過ごす。それはなぜなのか?

そんなモリー一家をペンバートンは「コスモポリタン」と定義してみる。モリー一家の正体を読み解くために家庭教師はそれに見合う事実を列挙していく。モリーン家の人間はフランス語、イタリア語、そしてアメリカ語を流暢に使いこなす。彼らはマカロニとコーヒーを常食しているだけでなく多くの料理の調理法を知っていた。ヨーロッパ大陸の主要都市を「職業上の必要から知っている」ように熟知していた。一週間が八日も九日もあるかのようにパーティ等の「招待日」が埋まっていた。彼らはヴェネチアの方言も使いこなし、ナポリの歌も歌えた。さらに、内輪話したいときには自分たちで考案した巧妙な暗号めいた言葉も使っていた──「家だけの通用語で、ウルトラモリーンというんだよ」とモーガンが教えてくれた。

 ただ、モリーン家だけの規則で通用するのは言葉だけではなかった。ペンバートンにとっては給料のことが問題だった。何しろ最初の給料の金額交渉ですらはぐらされまくり、金額が決まってからも支払いが滞り、催促してようやく恩着せがましい態度で給与のほんの一部が支払われる。と思いきや、今度は60フランを貸してもらえないかと頼まれる始末。

そこからペンバートンはある結論を導く。真相が突然閃いたのだ。モリー一家は山師で、自分はその「一団の山師につかまってしまった」と。給料がまともに払われないのに、自分はモリーン家を離れることはできない状態にある。なぜなら、ペンバートンとモーガンはすでに教師と教え子という関係以上の関係になっていたからだ。それはペンバートンとモーガンが「そのこと」を互いに自覚しているだけではない。モリーン夫妻もどうやら「そのこと」を知っているようだ──むしろそうなることをわかっていて、そうなるよう仕向けたのではないか、2人の娘たちを金持ちの男性に引き合わせて結婚させようと「招待日」の予定を綿密に立てていたように。

モリーン夫人はペンバートンに言う。「あなたはモーガンが可愛いからきっと私たちと一緒に居てくださるでしょう」「モーガンのような少年を知り、いっしょに暮らすのは一種の特権ですよ」。ペンバートンは見透かされていた。心の内を読まれていた。

ただ、 ペンバートンにとって気がかりなのは、一団の山師につかまってしまったのは、ペンバートンだけではなく、モーガンもそのような家族の被害者なのではないかと考えられるからだ。教え子は自分の家族について次のように教師に話す。 

家の人が何で生活し、どういう風に生き、なぜ生きているのか、何一つ知らないもの! 家に財産があるのかどうか、そしてそれをどうやって手に入れたのかもわからない。金持ちなのか貧乏なのか、普通には暮らしていけるのか、どうなのかしら? どうしてある年は大使のような暮らしをしたかと思うと、次の年には乞食みたいな暮らしをして、あっちこっち飛び回っているんだろう? 一体、どういう気なんだろう? ぼくはいろいろ考えてみたんだ。結局、家の連中はぞっとするほど俗っぽいんだ。それが一番いやな点だ。ああ、ぼくそれをこの目でちゃんと見届けたんだ! 表面だけつくろって、結構通用してしまうこと──それだけがあの連中の望みなんだ。一体、どういう人間として通用したいというのだろう? 

モーガンはペンバートンにこの家から出て行ったほうがいい、という。先生のような立派な人はこの家にいるべきではない。そのときちょうどペンバートンに別の家庭教師の口が見つかった。紹介してくれた友人によれば新しい家庭教師の家は金持ちだという。ペンバートンは「ぼくと きみのための貯金がふえる」とモーガンに言う。ペンバートンはモーリン家を後にする。

 

数か月後ロンドンで金持の少年の家庭教師をしているペンバートンにモリーン夫人から電報が届く。モーガンがひどい病気に罹っている、と。

 

感想その他

久しぶりに(約1年ぶりぐらいか)ヘンリー・ジェイムズを読んで、その桁違いの小説の上手さを実感し、さしたる事件が起きないのに次から次へとページをめくらせる物語の面白さを堪能した。例えば冒頭はペンバートンがモリーン夫人相手に給与の交渉をしているのだが、その給与の交渉というトピックから、モリーン家がどこか「ちぐはぐ」で妙な感じであることを読者にさりげなく伝え、モーガン少年が虚弱で心臓が悪いことが示される──これが小説の最後の伏線になっている。そしてモリーン家の人間がどこか「ちぐはぐ」で妙な感じなのはペンバートンも重々承知していて、彼はそれがどうしてなのか読み解こうとするのだが、その真相に気がついたときには、すでにペンバートンは「山師の一団」に捕まって身動きが取れなくなってしまっている。ペンバートンは他人を調査する側の人間ではなく、調査される側の人間だったのである。彼の言動は読み取られていた……と読み解ける。

こう考えると、ヨーロッパ化したアメリカ人(モリーン家)が、まだイノセントなアメリカ人(ペンバートン)を罠にかけ、利用しようとする構図が見えてくる。これは『ある婦人の肖像』と同型のパターンだろう。ジェイムズのこのパターンの小説はすごく好きだ。

 

データ

The Pupil, 1891 

行方昭夫 訳、『ヘンリー・ジェイムズ傑作選』(講談社)所収