The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

倉橋由美子 : 醜魔たち

概要

「ぼくはまるで貝のなかにとじこめられた醜魔だった。そしてぼくの醜さはたぶんぼくの絶望好みのためだったのだろう。いうまでもないがそれはあの貝の外にある堅固な世界と日常生活の進行に対する嫌悪から生まれたものだった」と語り手の「ぼく」は語る。それに続けて「だがそのぼくを《愛》という釣針で釣りだして現実世界にしっかりとつなぎとめることに成功した少女がある。そのときからぼくの真の絶望がつづいている」。「ぼく」は17歳の夏に経験したある出来事を語る。

「ぼく」は名目上、受験勉強のために岬の別荘で過ごしている。「ぼく」の両親は醜い離婚裁判の最中で、この別荘にはいない。そんな両親に反抗するように、「ぼく」は受験勉強よりも体を鍛え、大量の本を読み自我を肥大させていく。心身ともに「重量」になっていく。醜悪な両親への呪詛の言葉を吐く。あの男とあの女は……。

岬の別荘には「ぼく」とほぼ同い年の少女Mが通う。「ぼく」とMは、爆発する星雲や電波星雲、膨張する宇宙、存在、虚無……といった形而上学的な会話をする。そういった形而上学的な語彙で「ぼく」はMとの性行為について語る。形而上学的な語彙が豊富な「ぼく」の語るMとの性行為は、語り手がそうであるはずの男性の身体の様子や男性の性欲までもが形而上学的に語られ、その趣旨は「こうしてぼくはMのものになった。これはいいちがえではない。ぼくがMをものにしたのではなく、Mがぼくをものにしたのである」に帰結する。

ある日、「ぼく」とMは岬へと向かう。その日は台風がやってくるはずだった。相変わらず形而上学的な語彙で物事を語るので、どこまでが岬での遊泳なのか、どこからが岬での性行為なのかの境界線がはっきりしないしないが、その岬で、その行為の後、「エクスタシイの鳥と化して飛翔」した「ぼく」は「太陽の死骸」を発見する夢を見る。(「太陽の死骸」を発見したのだから、普段毎日みている太陽は「にせの太陽」ではないか、という推論を大真面目に記す17歳の少年は、ここに、この物語全体を読み解く鍵を読者に提供しているのではないか?)。

台風の去った次の日の朝、「ぼく」とMは浜辺を散策する。すると浜辺には黒人の少年が打ち上げられていた。どうやら近くの感化院から台風の混乱に乗じて脱走してきたらしい。少年の下半身を見てしまった「ぼく」とMは、少年を別荘に連れて帰る。胸のポケットにQの文字があったので「ぼく」はその黒人少年をQと呼ぶ。

Qは「ぼく」の創りだした「にせの女」であり、したがって「女たちが白い皮膚で包んでいるあの不気味なくらやみを外側にもっているのだ」、と「ぼく」は「認識の儀式」を執り行う。そのように想定したQとの性行為も形而上学的な表現がなされるが(薔薇色の肉のナイフとか操縦桿とか)、Mとのときとは違い、Q相手では「ぼく」は能動的な役割であることが読み取れる。

数日後、QがMと性行為をしているのを「ぼく」は見つける。そのときのMの表情から「ぼく」はある命令を読み取った。Mの命令どおり「ぼく」はQを殺した。その後、「ぼく」とMは結婚し夫婦になった。

 

 感想その他 

17歳のときの出来事を語る「ぼく」はいい大人のようだが(あれから20年経つといいう表現があるから現在は37歳くらいか)、一人称の文体は思春期特有の……厨二病さ全開で、まるでウィリアム・ブレイクの絵を思わせる幻視の世界が築かれる。とくにあの「太陽の死骸」の場面の世界の終わり感がすごい。しかもこの壮大な「世界の終わり」は、最初の方で「ぼく」が父親を呪詛するときの「放射性精子をまきちらす睾丸の破裂」とリンクしているようで、それをそうだと考えると、同じように作者がどこにどのような仕掛けを施して、どれとどれをリンクさせているのかをすべて読み解きたくなる。たしかに「ぼく」の父親の睾丸が破裂していたら、「ぼく」はこの世に生まれず、したがってこの世界はなかったであろう、と考えるのは厨二病と親和性がありそうだ。

ところで、小説の最後では「ぼく」とMは夫婦という関係になっていることが記されている。Qを殺した夜、「ぼく」はMを《妻》という言葉で呼ぶほかないことを悟る、という説明もある。一方、小説の冒頭ではMという少女との出会いから「真の絶望がつづいている」と「ぼく」は語っていた。あれから20年経ったのならば「ぼく」とMとの間に17歳くらいの息子がいても不思議ではない。

 

データ

『夢のなかの街』(新潮社)所収 

夢のなかの街(新潮文庫)

夢のなかの街(新潮文庫)