The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

泉鏡花 : 化鳥

概要

雨の中、笠と蓑を着て三角形の冠をかぶった猪が橋の上を渡っていくのが見える。少年と母親は、その橋の袂にある榎の下の小さな小屋に住んでいた。間に合わせで作られたような粗造な橋であったが、少年はその橋を「母様の橋」と呼んでいた。母子一家は橋の通行料で生計を立てていたからだ。でも、ときどき「ずるい人」がいて、橋の通行料を支払わずに橋を通り抜けていく。少年の学校の先生もそうだった。「ねえ、母様、先生もずるい人なんかねえ。」
もちろんその先生はずるい。ずるいに決まっている。でも、それを口に出せなかった。なぜなら教師と生徒の間には明白な権力関係があり「そんなことで悪く取って、お前が憎まれでもしちゃなるまいと思って、黙っていました」と母親は少年に告げる。もっとも橋の通行料のことがなくても先生は僕のことを邪見にしている、と少年は母親に訴える。事の次第は以下のようである。
先生は修身の授業で「人間が一番偉い」と言った。
でも少年はそう思わなかった。「だから僕、そういったんだ、いいえ、あの、先生、そうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も、皆おんなじ動物のだって」
馬鹿なことを言うんじゃないの、と先生。だって動物は口をきかない、ものをいわないでしょ。
でも雀なんかは僕のところにやってきてチッチッチッチと何かいって聞かせるじゃないですか。
それはものを言うんなじゃくて、囀るっていうの。
「先生、人だって、大勢で、皆みんなが体操場で、てんでに何かいってるのを遠くン処とこで聞いていると、何をいってるのかちっとも分らないで、ざあざあッて流れてる川の音とおんなしで、僕分りませんもの」
先生は笑いながら、人間には智慧というものがあって動物にはそれがない、だから魚は釣られたり網で採られたりするし、鳥も刺されて、結局人間に食べられてしまう。先生はそう例を出し物分かりの鈍い生徒を教え諭す。
でも魚を採ってる人間は格好が悪いです、と少年。逆立ちになり水に潜り(まるで犬神家の佐清みたいに)足だけが見えている。なんて不恰好なんでしょう。それに比べて金魚や鮎の美しさといったら。それに笠をかぶって釣をしている人なんて茸のようですよ。御覧なさい、あれは土手に生えたイッポンシメジみたいじゃないですか。それが川原に十人も三十人も塊まって動きもしない。あのくさくさ生えている千本シメジみたいなものが智慧のある人間なんですかね。その間、綺麗な魚は悠々と水の中を泳いでいる。
少年は「人間が一番偉い」という決めつけに対し、次々と異議を──そうでないと思っていることを──唱えていく。そして決定的な一言を教師に対して言ってしまった。(人間である)先生よりも花のほうが美しい、と。正直に。こういったことにより少年は学校の先生に可愛がってもらえなくなった。母親は少年に、おまえのほうに道理があるよ、と慰める。
「だって、虚言をいっちゃあなりませんって、そういつでも先生はいう癖になあ。ほんとうに僕、花の方がきれいだと思うもの。ね、母様、あのお邸やしきの坊ちゃんの、青だの、紫だの交まじった、着物より、花の方がうつくしいって、そういうのね。だもの、先生なんざ。」

 


感想その他
鋭敏な感性をもった少年が、それを理解しない体制側を象徴する教師(教師はその職務上、すべて体制側であろう)に異議を唱え、抵抗し、それによっておそらく学校で疎まれるべき存在になってしまっていることは想像がつく。そしてこの少年と教師との間にある相容れなさが個人的に気になった。

少年の主張は以下である(これは少年が母親から受け継いだ「思想」であり、これを反故にすることは少年にはどうしてもできない。この「考え方を共有」していることが、それを両者が十分に自覚していることが通常の母子以上の密着性を感じさせる)。

  • 人間も、鳥獣も草木も、昆虫類も、形こそ変っていてが、すべて同じものである

一方、教師は、

  • 人間が一番偉い

である。

実のところ少年の主張と教師の主張のどちらに是があるか、というのは個人的には、それほど興味がない。というより問題はそこじゃない。なぜなら少年の教師に対する受け答えには飛躍やズレ、粗さがありすぎるからだ。
例えば教師が動物は口をきかないと言ったことに対し、少年は雀が自分たち人間に話しかけると応える。しかし雀がチッチッチと人間に話しかけているように見えるが、それでも実際に少年や他の子供は雀と会話をしたわけではない。囀ることに対しても、体操場で何か言っているのを「遠くで」は聴くことができない、それは川の音と同じだ、というのも説得力を感じない。なぜなら、どんなに川に近づいても川の音は川の音でしかないが、体操場での場合、対象に近づけば何を話しているのか聞き取ることができるからだ。魚を捕っている人は不恰好、釣り人はキノコのよう、それに比べて金魚は綺麗で鮎は精悍でスイスイ泳いでいる、というのも焦点がぼやけている。真の問題はなぜそんな不恰好な人間に魚は投網などで捕られ、キノコのようにもっさりとした人間に魚が釣られてしまうのか、のはずだ。見栄えだけなら人間の水泳選手と比較すればいい。それに花と教師を比べて花の方が美しいというのも、そもそもそれって比較対象になるのだろうか? というのがまずあり、そしてもしそれが効果をもつのだとしたら、少年の論法がルッキズムに依存しているからであろう。

教師は少年の異議に対し、このようにそれこそ赤子の手をひねるように反論できるし、読者も少年の議論の飛躍やズレ、粗さに気がつき、この部分だけ読めば、教師が少年にいちいち反論しないのはそれこそ大人の態度だと読み取ることができるだろう。

しかしこの『化鳥』を最初から読んでいる読者は、そう読めないし、読まない。それは教師が橋の通行料を支払わない「ずるい人」だからだ。見知らぬ者ではなく、教え子の家の橋の通行料である。橋の通行料で細々と生計を立てている母子家庭にとって、それがどういうことか智慧ある教師ならば容易く理解できるはずなのに、それにもかかわらず通行料を誤魔化す「ずるい人」だからだ。しかも教え子である少年が教師が橋を渡るのを見ているのに、それでも通行料を支払わない傲慢さ──まるで「知識のある教師は一番偉い」、だから教え子がその様子を逐一見ているのに通行料を踏み倒しても何の良心も傷まない、知識はずるいことをするために、知識はずるいことをしても何のおとがめも食らわないためにあるようだ。要するに、教師は、教師というその立場を悪用して、橋の通行料を支払わない「ずるい人」である。その事実はどうあっても動かない。

 

私たちは、「クィア理論」が排除だとか浄化だとか「ネオリベラリズムと親和性がある」だとか、そういった知識をどれほど披露したとしても、大学でこれほどまでに非正規雇用者の雇い止めが行われている/いたという事実をこそ直視しなければならない。なぜ、そんな「クィア」との関わりを強要されるのか──なぜそんなものに関りを持つことが当然視され、それがいつのまにか既成事実化されてしまっているのか。そんな横暴は絶対に許せない。

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:化鳥