The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

A・M・ホームズ : リアル・ドール

概要

書き出しはこう。

僕はいまバービー人形とつきあっている。週三回、妹がダンスの教室に行っている隙に、バービーをケンのところから連れ出す。まあ、いわば将来にむけての予行演習だ。 

 登場「人物」は、ほぼこの4人に限られる。語り手の少年「僕」、「僕」の妹のジェニファー、バービー人形、そしてケン人形。それにちょっとだけ「僕」の両親が出てくる。

最初に誘ったのはバービー人形の方だった。まるで妹のジェニファーの友達のように僕に声をかけ、僕もそれに応え、コーラを飲みながらデートをする。僕はバービー人形にケン人形との仲を訊く。「彼とはだたのお友達よ」とバービー。僕はそれを知ってバービーと付き合うことになる。

ある日、バービー人形が足の痛みを訴えた。理由を尋ねると、ジェニファーがバービーの足を噛むのだという。僕はバービーの足を優しく介抱するように口に入れ、吸う。僕もバービーも気分が乗ってきた。僕とバービーは合意の上、セックスをする。

一方で僕は、ケン人形のことも気になっていた。バービーと二人して、ケンの男性能力について冗談を言っていたが、以前からバービーを取り合うライバルとは別の「男と男のお遊び」に興味を覚え、それが発展していく。「ケンとたったの一度、ちょっとああいうことになったってだけで、もう将来ゲイとして生きていくかどうか決めなくちゃいけないんだろうか」。ケンもジェニファーから「虐待」を受けていた。

ケンの介抱を済ますと、バービー人形が僕に「ファックして」と言ってきた。僕はバービーの身体を点検する。下品な落書きがされており、ナイフによる傷もあった。 

「どうしてこんなことされて黙っているんだよ?」

「だってあたしはジェニファーの物だから」バービーがあえぎながら言った。 

 

感想その他

題材が題材だけど、この作者は生真面目だな、と思った。それは人形とのセックスを人形とのセックス以上でも以下でもなく、つまり人間と人間のセックスとの「違い」を「僕」に考えさせたり語らせたりはしていないからだ。「僕」はバービーとのセックスによって男性としての自身をもち、ケンとのセックスによって自分がゲイなのではないかと思う。対人間との行為なしで性的経験が語られるし、語り得ることができるように描いている。「人形愛」というものではなく、「人形愛」しかないので、そこには異性の人形か、同性の人形かという問題しかない、みたいな感じになっている。そういう視点で一貫しているし、そういう制約の下での性行為を含めた「人間関係」を描いているので、題材が題材だけど生真面目な印象を受けた(だから、妹ジェニファーの人形への乱暴な扱いは「僕」には「虐待」に映る)。その分、「僕」がバービーへのプレゼントを買いにトイザラスに行くところは、ちょっとくど過ぎる気がしないでもないが。

それと「僕」のバービーとの初体験の部分を読んで、イアン・マキューアンの『自家調達』を思い出した。こういう題材だし、作者のA・M・ホームズにはイアン・マキューアンの影響があるのかもしれない。

 

データ

岸本佐和子 編訳『変愛小説集』(講談社)所収 

変愛小説集 (講談社文庫)

変愛小説集 (講談社文庫)