The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

小酒井不木 : ある自殺者の手記

概要

加藤君、僕はいよいよ自殺することにした。この場合自殺が僕にとって唯一の道であるからである。 

自殺を決意した「僕」は、その経緯を加藤君という友人らしき人物に宛てた手記として書き残す。手記の中で僕は、自殺することがいかに理にかなっており、当然の成り行きだと、加藤君に説明する。「いうまでもなく」僕の自殺の動機は失恋である。なぜなら、僕と加藤君の二人は、一人の女性、看護師の恒子さんに恋をし、恋争いの結果、加藤君が恒子さんと結ばれ、僕は敗北したからだ。と、そのように、僕の手記は、加藤君以外の人が読んでも事情を把握できるように、僕と加藤君の間にあるはずの暗黙の了解を極力排したものになっているのが特徴である。
手記の前半部分をまとめると、
僕は自殺する。僕の死は自殺以外の何物でもない。
自殺の動機は失恋である。それ以外の解釈は認めない。
僕と加藤君は看護師の恒子さんをめぐって争っていた。
僕は加藤君と同じ医師で同じ病院に勤めている。
僕も「加藤」という名前である。 

して見ると自殺を決心したものの心持ちは、自殺を決心しないものには到底理解し能あたわぬものだといえる。まったく自殺を決心したものの心持ちは、自殺者のみの知るところであって、世の自殺者はこの点に大おおいに誇りを感じてしかるべきであろう。 

 

感想その他

小酒井不木は初めて読んだ。「不健全派」と呼ばれるに相応しく、理路整然と自分の自殺の正当性を説いていながら、肝心のところが極めて稀な偶然に頼っていることや、発狂せずに解決する道があるとすればそれは「自殺には道づれが必要」だという結論を導くところなど、たしかに読んでいてどこか据わりが悪く、不安にさせられた。いったい「僕」が加藤君と同じ「加藤」という姓ではなかったら、こんな悲劇は起きなかったのに、と残酷な神の采配を目の当たりにして、なすずべもなく立ちすくんでいる読者も多くいるはずだ。

ただ、それなりの推理小説の読者だったなら、この理路整然と書かれたはずの手記に、どこか据わりが悪く不安にさせられるのは、そこに微妙な論理の飛躍があり、その微妙な論理の飛躍の、その微妙さが、推理小説のあるパターンに則っているだろうと直感するからかもしれない。ニコラス・ブレイクセシル・デイ=ルイスの『野獣死すべし』の手記なんかを思い出して。そして思う。これをもっと推理小説的に読めないか、と。
例えば自殺を決意した「僕」が、自殺方法についてあれこれ考えていたら生への執着に捉われ、その問題解決が自殺の道連れの必要性だという結論に至ることに、なんか引っ掛かる。この微妙な論理の飛躍の、この微妙さが気になる。逆に考えれば、もし死体が3つ発見され、すぐそばにこの手記があったら、1人が2人を殺して自殺した、と見なされるだろう(現代的な捜査をひとまず置いておいて)。とくに気になるのは、手記の中で「僕」が、「僕」と加藤君の筆跡は似ている、ほとんど同じだと記していることだ。二人の人物の筆跡が似ているということは、非常に癖のない、例えばペン字でもやって「手本を真似た」ような筆跡か、あるいは逆に、非常に癖があり(それゆえ真似やすい)、それを片方がもう一方を真似ているかのどちらかだと思う。
そう考えると、「僕」でも加藤君でもない別の第3者が、「僕」か加藤君の筆跡を真似て、この手記を書いた可能性も排除できない。その第3の人物は、「僕」か加藤君か恒子さんのうちの1人、あるいはそのうちの2人、あるいは3人全員を殺したかったのかもしれない。
そのためにこそ、第3の人物がこの手記を書いたのだろう。あれほど失恋による自殺であるという時代錯誤的な動機(ウェルテルの真似?)を強調していたのは、これで説明がつく。あるいは途中まで「僕」が書いた手記を後半部分を改竄して利用したのかもしれない。そうすれば前半の理路整然とした部分と後半の部分の齟齬が説明できる。筆跡は真似できても、微妙な論理の飛躍は、前半と後半で別人が書いたと想定すれば、これもこれで説明できる。そして、その場合、個人的な推理では、恒子さんが怪しいと思う。

 

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:ある自殺者の手記