The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

神西清 : ハビアン説法

概要

「昨日はよつぽど妙な日だつた。」と語り手の「私」は、不思議な体験をした一日を振り返る。その日は、日曜日なのにカラリと晴れたのが、まずおかしい、そして無精な私が散歩に出る気になったのも、おかしい……と不思議な体験をしたその日は、今から思えば、最初から、些細なこととはいえ、普段とは異なった奇妙な出来事が連鎖的に起こっていたのだった。語り手の私は、そうやってこれから書くことになる不思議な体験を、その日の非日常性の連鎖をもってエクスキューズとし、この物語の最後も、それで説明できるよう準備する──妙な日だから妙なことが起こったのだ、と。

 

その日、私は「北条の腹切りやぐら」の石塔の写真を撮ろうと出かけたのだった。小川を超え、しばらく行くと、不思議なことに以前は細い坂道だったのが、今は真新しいアスファルトに変わっていた。そしてその道を登りつめると「思ひもかけぬ別天地がひらけた」のだった。そこには南蛮寺=教会があった。アビト姿のバテレン神父がいた。「道をへだてたこちら側は清浄な運動場で、そこでは青年男女が、ハンドボールに興じてゐる。ピカピカなニュー・ルックの自転車の稽古けいこをする者もある。」。私はこのK市(おそらく鎌倉)とキリシタン宗との浅からぬ関係についての歴史に思いを馳せる。

 
南蛮寺を後にしばらく歩いているときだった。通りに人だかりができていた。円頂僧形の赤ら顔の弁士と顔色の悪い復員服を着た青年を取り囲んでいた。あの二人は新興宗教の宣伝に決まっている。ただ僧形の弁士の熱弁を聞いている聴衆は誰もが相当なインテリらしい、と私は思う。
甲高く、ネチネチした不愉快な声で、弁士は、南蛮キリシタン宗はいかにして「愚民」を誑かしているかを説いていた。キリシタン宗は、どんな欺瞞を施して愚民の感心を買っているのか、と教え諭していた。ただ聴衆はインテリばかりなので、弁士のキリスト教攻撃をそのままでは鵜呑みにしない。私たちは「愚民」ではなく「人民」だと細かいチェックも入る。「そんなことで人民は騙だまされないぞ!」と、妖術や魔術のようなキリスト教の「奇跡」なんかでいったい何処の誰が、そんなものを有り難がるのか、と鼻から相手にしない──俺たちはインテリなんだぞ。また、弁士のキリスト教攻撃の内容よりも、弁士の幟に記されている”R”は何を意味しているのかを気にする者たちもいる── Radical か、それとも、Revolutia か、あるいは、Reaction かもしれいな、と。

 
インテリ相手ではどうも分が悪い。そう思ったのか反キリスト教の弁士は、とっておきの逸話を語り出す。かつて信長公は南蛮宗と仏門の宗論をセッティングした。南蛮宗側は学僧フルコム伴天連、対するはこの私、梅庵、と弁士は言う。
まず、梅庵側から。仏僧は乞食托鉢し、喜捨と仏果を交換する。しかるに南蛮宗は一切の施物を受けず、それどころか人民に施しをする。こうして人民の甘心を買っている。この奇怪な仕業の底意は何事か?
フルコム伴天連は言う。ワタシタチノクニデワ、デウス様を拝むによつて、苦患なく乞食なく病者もいない。どうして貧しい者たちから施物をもらう必要があるのか。
梅庵。それでは、すでにつねに苦患などないではないか。それなのになぜ貴国には宗教があるのか?
それは、とフルコム伴天連。ジャボ(天狗)がいるからだ。デウス如来は人間を造る前にアンジョ(天人)を造った。そのアンジョの中のルシヘルという者がインテリゲンシヤ(知)に驕り、慢心を起こし、徒党を率いてデウスに反旗を翻した。この堕ちたアンジョが天狗なのである。天狗は人民を誑かす。この日本にも天狗がいる。ゆえに宗教があり、布教が必要なのである。
梅庵は呵々大笑して言う。自縄自縛とはこのことだ。デウスが全能(サピエンチイシモ)ならば、なぜ堕天使ルシヘルを造ったのだ? そしてもしデウスが全能ならば、なぜルシヘルが堕ちることを知らなかったのだ? デウスはサピエンチイシモではないではないか。呵々、呵々、呵々。
これにて梅庵はフルコム伴天連を論駁した。

 
さすがのインテリ聴衆たちも、この話を聞いて感嘆した。ところがそこに哄笑が沸き起こった。梅庵=弁士と同じ僧形の男が「なつかしや梅庵、この声が分るかの」と言う。「なつかしや梅庵、いやさ不干ハビアン」。僧形の男は柏翁だった。柏翁によれば、先ほどの「フルコム伴天連 vs 梅庵」の宗論は、実は「ハビアン=梅庵 vs 柏翁」だったのである。ハビアン=梅庵は元来仏僧だったが、キリスト教に帰依し、キリスト教徒として神道儒教、仏教を攻撃した。にもかかわらず、今度は『破デウス』を書き、キリスト教に反旗を翻した。そのハビアンの魂は神道儒教、仏教、キリスト教のいずれにも癒されず、死と生の間を彷徨い、そして、Resistantia(レジスタンシヤ)宗の教祖になり、時空を超えて、ここにやってきたのであった。

 

 

感想その他

不干斎ハビアン(1565 - 1621)については以前ブログに書いたことがある。

ブログの方でも長々と書いたので、あまりこれに付け加えることはない。ブログに長々と書いたように、ハビアンは最初はキリスト教を布教する側の人間であったのが、後にキリスト教に反旗を翻し、キリスト教を排撃する側に回った。ブログに長々と書いたのは、ハビアンの論法(説法)が、最初はキリスト教を擁護する言説だったものを、後に、それを攻撃材料に流用するばかりではなく、さらに加えて「現実はこうなっているではないか」と、まるで背理法の証明みたいで面白いなと思ったからだ。もちろんブログに長々と書いたのは、こういう生涯を送ったハビアンという人物に興味関心を抱いたからだ。

 

神西清はこの『ハビアン説法』で、神道儒教、仏教、キリスト教の何れにも喧嘩を売ったハビアンは(無神論者にならず)、その魂が癒されず、時空を超えて現代でもキリスト教攻撃をやっている、というSF的設定を設ける。ハビアンは時空を超えた「レジスタンス教徒」なのだ、と。

そしてSF的設定は、ある登場人物が主張している史実に対し、別の人物がそれにクレームをつけることを小説内で可能にする。ハビアンの論法は、実はかつてキリスト教徒だったハビアンを論駁した柏翁の説法(論法)を、反キリスト者のハビアンが流用しているものだとし、現代の聴衆(読者)に柏翁がわざわざ時空を超えてそれを伝えにやってきたところで終わっている。なかなかSF的に屈折していて面白い。ただ、短編なので仕方がないのかもしれないが、現代に現れたハビアンの弟子だか相棒だかの復員服の青年にもっと「何かしらの」存在感があれば、さらにもっと面白くなったかもしれないなとも思う。

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:ハビアン説法