The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

ジャック・ロンドン : 影と閃光

概要

ロイド・インウッドとポール・ティチローンはライバル同士だった。髪の色や興奮したときの顔色、目の色といった色彩がそれぞれ異なるだけで、他はまるで双子のような姿態をしていた。性格も似ており、二人とも激しやすかった。二人は、あらゆることにおいて競い合っていた。

そんなロイドとポールの宿命のライバルに挟まれながら、その二人の仲介者であったのが語り手の「僕」である。華奢で背の高い二人と違って、僕は背が低くずんぐり太っている。性格もおっとりしているようだ。

スポーツ万能、学力優秀のロイドとポールに振り回されながらも、僕とロイド、僕とポールの交友は絶えなかった。あのときまでは。

大学で化学を専攻した二人は不可視性というものに関心を抱く。不可視性というものの可能性を研究する。不可視性というものを拡張する理論を組み立てる。そこから二人は、二人とも、自分自身を不可視の存在にするための研究に没頭することになる。二人は競い合って研究した。だが、それぞれの、自分自身を不可視の存在にするための方法論は対照的だった。ロイドは闇のような黒さの中で自分を不可視化することを目論む。一方、ポールはあらゆる光線を通過させる透明性の中で、自分を不可視の状態におくことを考える。

どちらにしても、二人の研究は、早い話が自分たちを透明人間にすることだった。

 

感想その他

ジャック・ロンドン版透明人間であるが、どうやって透明人間になるのかという化学的説明や、そもそもどうして透明人間になる必要があるのか、みたいなものは置いといて……この『影と閃光』で読むべきものは、知力体力財産に恵まれた(しかも高身長、おそらくルックスもよいだろう)ロイドとポール、それにどこか冴えない「僕」の三人の男性の奇妙な関係だろう。ロイドとポールは宿命のライバルという設定なので、それ以上の詳しい説明もなく、いつでもどこでも二人は反目し合い、一触即発の状態にある。ロイドとポールが相争っているので、「僕」は二人を宥める役になれるし、二人も僕を慕ってくる。そして「僕」がいるからこそ、「僕」を介在にして、ロイドとポールが出会うことを可能にする。例えば「僕」の家でポールが(なぜか)雑誌を読んでいるときに、ロイドがやってきてちょっとしたいざこざみたいなことが起こる。そのとき「僕」は「両方の味方」であることにまんざらでもない様子だ(ここでアガサ・クリスティの『ナイルに死す』を思い出して、ロイドとポールが反目しているのは事実なのか、実際は反目しているように演じているだけなのではないか、もしそうだとしたら「僕」の役割も随分変わるはずだ)。

で、思い出した。人が透明人間になるときって必ずといっていいほど裸になる。このジャック・ロンドンの小説もそれを踏襲している。ここでは(例えばロイドの場合)、透明人間になるには、薬品を体に塗る必要がある。ロイドはまず僕の前で服を脱ぐ。そして、その裸のロイドの身体に「僕」が刷毛で薬品を塗ると、その部分だけが透明になっていく。ここはヴィジュアル的にもなかなか面白い。ただ薬品が身体全体塗られ、完全に透明になると、ヴィジュアル的には影のようなものしか見えない、閃光みたいなものしか見えない、気配だけがある、と表現するしかない。したがって詳細な描写は不可能になる。しかし、それによって、かえって、それとなく表現可能なものもあるのではないか。

この小説のクライマックスは透明人間になった、すなわち裸の状態であるロイドとポールの挌闘である。「僕」は見えない二人の挌闘を、影と閃光と気配から、それがどんなものであるかを感じ取る。ここで透明人間2人+1という設定が効いている。「それ」が見えない「僕」は何を想像したのか? それが気になる。

 

データ

柴田元幸 訳、『火を熾す』(スイッチ・パブリッシング)所収 

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)

火を熾す (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)

 

 

 

 

 

神西清 : ハビアン説法

概要

「昨日はよつぽど妙な日だつた。」と語り手の「私」は、不思議な体験をした一日を振り返る。その日は、日曜日なのにカラリと晴れたのが、まずおかしい、そして無精な私が散歩に出る気になったのも、おかしい……と不思議な体験をしたその日は、今から思えば、最初から、些細なこととはいえ、普段とは異なった奇妙な出来事が連鎖的に起こっていたのだった。語り手の私は、そうやってこれから書くことになる不思議な体験を、その日の非日常性の連鎖をもってエクスキューズとし、この物語の最後も、それで説明できるよう準備する──妙な日だから妙なことが起こったのだ、と。

 

その日、私は「北条の腹切りやぐら」の石塔の写真を撮ろうと出かけたのだった。小川を超え、しばらく行くと、不思議なことに以前は細い坂道だったのが、今は真新しいアスファルトに変わっていた。そしてその道を登りつめると「思ひもかけぬ別天地がひらけた」のだった。そこには南蛮寺=教会があった。アビト姿のバテレン神父がいた。「道をへだてたこちら側は清浄な運動場で、そこでは青年男女が、ハンドボールに興じてゐる。ピカピカなニュー・ルックの自転車の稽古けいこをする者もある。」。私はこのK市(おそらく鎌倉)とキリシタン宗との浅からぬ関係についての歴史に思いを馳せる。

 
南蛮寺を後にしばらく歩いているときだった。通りに人だかりができていた。円頂僧形の赤ら顔の弁士と顔色の悪い復員服を着た青年を取り囲んでいた。あの二人は新興宗教の宣伝に決まっている。ただ僧形の弁士の熱弁を聞いている聴衆は誰もが相当なインテリらしい、と私は思う。
甲高く、ネチネチした不愉快な声で、弁士は、南蛮キリシタン宗はいかにして「愚民」を誑かしているかを説いていた。キリシタン宗は、どんな欺瞞を施して愚民の感心を買っているのか、と教え諭していた。ただ聴衆はインテリばかりなので、弁士のキリスト教攻撃をそのままでは鵜呑みにしない。私たちは「愚民」ではなく「人民」だと細かいチェックも入る。「そんなことで人民は騙だまされないぞ!」と、妖術や魔術のようなキリスト教の「奇跡」なんかでいったい何処の誰が、そんなものを有り難がるのか、と鼻から相手にしない──俺たちはインテリなんだぞ。また、弁士のキリスト教攻撃の内容よりも、弁士の幟に記されている”R”は何を意味しているのかを気にする者たちもいる── Radical か、それとも、Revolutia か、あるいは、Reaction かもしれいな、と。

 
インテリ相手ではどうも分が悪い。そう思ったのか反キリスト教の弁士は、とっておきの逸話を語り出す。かつて信長公は南蛮宗と仏門の宗論をセッティングした。南蛮宗側は学僧フルコム伴天連、対するはこの私、梅庵、と弁士は言う。
まず、梅庵側から。仏僧は乞食托鉢し、喜捨と仏果を交換する。しかるに南蛮宗は一切の施物を受けず、それどころか人民に施しをする。こうして人民の甘心を買っている。この奇怪な仕業の底意は何事か?
フルコム伴天連は言う。ワタシタチノクニデワ、デウス様を拝むによつて、苦患なく乞食なく病者もいない。どうして貧しい者たちから施物をもらう必要があるのか。
梅庵。それでは、すでにつねに苦患などないではないか。それなのになぜ貴国には宗教があるのか?
それは、とフルコム伴天連。ジャボ(天狗)がいるからだ。デウス如来は人間を造る前にアンジョ(天人)を造った。そのアンジョの中のルシヘルという者がインテリゲンシヤ(知)に驕り、慢心を起こし、徒党を率いてデウスに反旗を翻した。この堕ちたアンジョが天狗なのである。天狗は人民を誑かす。この日本にも天狗がいる。ゆえに宗教があり、布教が必要なのである。
梅庵は呵々大笑して言う。自縄自縛とはこのことだ。デウスが全能(サピエンチイシモ)ならば、なぜ堕天使ルシヘルを造ったのだ? そしてもしデウスが全能ならば、なぜルシヘルが堕ちることを知らなかったのだ? デウスはサピエンチイシモではないではないか。呵々、呵々、呵々。
これにて梅庵はフルコム伴天連を論駁した。

 
さすがのインテリ聴衆たちも、この話を聞いて感嘆した。ところがそこに哄笑が沸き起こった。梅庵=弁士と同じ僧形の男が「なつかしや梅庵、この声が分るかの」と言う。「なつかしや梅庵、いやさ不干ハビアン」。僧形の男は柏翁だった。柏翁によれば、先ほどの「フルコム伴天連 vs 梅庵」の宗論は、実は「ハビアン=梅庵 vs 柏翁」だったのである。ハビアン=梅庵は元来仏僧だったが、キリスト教に帰依し、キリスト教徒として神道儒教、仏教を攻撃した。にもかかわらず、今度は『破デウス』を書き、キリスト教に反旗を翻した。そのハビアンの魂は神道儒教、仏教、キリスト教のいずれにも癒されず、死と生の間を彷徨い、そして、Resistantia(レジスタンシヤ)宗の教祖になり、時空を超えて、ここにやってきたのであった。

 

 

感想その他

不干斎ハビアン(1565 - 1621)については以前ブログに書いたことがある。

ブログの方でも長々と書いたので、あまりこれに付け加えることはない。ブログに長々と書いたように、ハビアンは最初はキリスト教を布教する側の人間であったのが、後にキリスト教に反旗を翻し、キリスト教を排撃する側に回った。ブログに長々と書いたのは、ハビアンの論法(説法)が、最初はキリスト教を擁護する言説だったものを、後に、それを攻撃材料に流用するばかりではなく、さらに加えて「現実はこうなっているではないか」と、まるで背理法の証明みたいで面白いなと思ったからだ。もちろんブログに長々と書いたのは、こういう生涯を送ったハビアンという人物に興味関心を抱いたからだ。

 

神西清はこの『ハビアン説法』で、神道儒教、仏教、キリスト教の何れにも喧嘩を売ったハビアンは(無神論者にならず)、その魂が癒されず、時空を超えて現代でもキリスト教攻撃をやっている、というSF的設定を設ける。ハビアンは時空を超えた「レジスタンス教徒」なのだ、と。

そしてSF的設定は、ある登場人物が主張している史実に対し、別の人物がそれにクレームをつけることを小説内で可能にする。ハビアンの論法は、実はかつてキリスト教徒だったハビアンを論駁した柏翁の説法(論法)を、反キリスト者のハビアンが流用しているものだとし、現代の聴衆(読者)に柏翁がわざわざ時空を超えてそれを伝えにやってきたところで終わっている。なかなかSF的に屈折していて面白い。ただ、短編なので仕方がないのかもしれないが、現代に現れたハビアンの弟子だか相棒だかの復員服の青年にもっと「何かしらの」存在感があれば、さらにもっと面白くなったかもしれないなとも思う。

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:ハビアン説法

レオン・ブロワ : 殉教者の女

概要

ヴィルジニー・デュラーブル夫人は、かつて自分の夫を痴呆状態へ追い込み、保護施設へ収容させた。今度は自分の娘とその夫の番だった。なぜなら、娘は母親の奇行と悪意を十分知っていたので、結婚のチャンスが訪れると、すぐに夫とともに逃げるように実家を飛び出ていったからだ。自分はボロぎれにように捨てられた。昼も夜も、休みなく娘のためにお祈りをしてきたのに、こんな仕打ちを神様が許してくれるでしょうか──と、デュラーブル夫人は、特急列車が新郎新婦を乗せて走り去っていった駅のホームで、滔々と駅員に訴える。

娘とその夫に復讐しなければならない。いや、復讐では足りない。彼らを罰してやらなければならないのだ。デュラーブル夫人は『出エジプト記』にある十戒の第四の掟「あなたの父と母を敬え」を引き、自分にはその掟を破った者たちを罰する権利があることを確認した。それどころか、彼らを罰する義務すら感じた。聖書にそう書かれている以上、どんな手段を取っても、どんな邪悪な術策であろうと問題にならない。デュラーブル夫人は一途な信仰心の持ち主だった。

まずは娘を奪った夫への罰。娘の夫は「世にもおそろしい悪徳、けがらわしい悪習の持ち主」、すなわちソドムの人間だという情報が流される。何人もの「証人」が現れる。若妻にはソドムの町からとおぼしき際どい内容の手紙が届けられる。

娘への罰も同様だった。夫に、妻の過去を暴露する不潔で淫らな内容の手紙が舞い込む。お前の妻はゴモラの人間で、そのため寄宿舎では50人もの娘が堕落させられた──それゆえ、その女は正真正銘の処女である、と。

デュラーブル夫人は数多くの話を捏造し、それによって自分の娘を愚弄し、娘の夫をいたぶった。二人が逃げていく先々で、ホテルにも、勤め先にも、召使たちのところにも、町の有力者のもとにも、二人のいるありとあらゆるところに、悪意の手紙がばらまかれていた。

執拗に苛め抜かれた二人は、精神的に追い詰められ、死んだ。死因は正確にはわからない。だが、デュラーブル夫人は、二人は自殺した、と証明させた。これにより、娘とその夫はキリスト教徒として埋葬されることを阻むことができた。

 

感想その他

単に厄介者を殺す、ではなく、痴呆状態の陥らせ廃人にする。単に憎い者を殺す、ではなく、事実の捏造による社会的制裁を加え、自殺に追い込む。しかも、デュラーブル氏も、娘とその夫も、そんな精神的拷問を受けるようなことは何もしていないのにだ。単なる殺人以上の壮絶な物語だった。ほとんどホラー小説だった。

とくにデュラーブル夫人が十戒を盾に「罰を加える権利」を主張する場面は、その後のホラー小説やサイコスリラーの先駆的な感じで、今となっては見慣れたパターンであるが、こういう「他人に○○する権能が自分にはある」と思い込む人物については、なぜそう思うのか/思えるのかという点が目下のところ個人的な関心になっているので興味深く読んだ。もちろんデュラーブル夫人は、あくまでも自分は「殉教者気取り」になっている(つもりである)というのも典型的だった。

 

人を殺す、ではなく、人を廃人にするというテーマで真っ先の思い浮かべるのはマーゴレット・ミラーの『鉄の門』だ。あれは「狩り」になぞらえ、狐を追いつめる犬が暗示されていた。

 

作者レオン・ブロワは、かくのごときを行ったデュラーブル夫人は上へ上へとのぼりつめ、なんの困難もなしに「第三の天」へ至ったと皮肉たっぷりに書いている。この「第三の天」は、コリント信徒への手紙二からのもので、以下がそう。

わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りませんが、神がご存じです。

 

コリントの信徒への手紙二 12.2 新共同訳聖書 

 

データ

田辺保 訳、『バベルの図書館 薄気味わるい話』(国書刊行会)所収 

新編バベルの図書館〈4〉フランス編

新編バベルの図書館〈4〉フランス編

 

 

 

ジャック・ロンドン : あのスポット

概要

「俺」とスティーヴン・マッカイは1897年のゴールドラッシュにクロンダイクを目指した。俺とスティーヴは実の兄弟以上の仲だった。スティーヴは俺の相棒だった。同志だった。俺はあいつが病気のときは治るまで看病し、あいつも俺の命を救ってくれた。俺はあいつを心から信頼していた。

それなのに今は、スティーヴが現れたら、俺は何をするかわからない。俺とスティーヴがこうなったのは一匹の犬が原因だった。

俺とスティーヴは冬の峠を越えるため犬を買った。血統ははっきりしないが見栄えはよかった。犬の一方の胴に大きな水玉があたったので「スポット」と名付けた。スポットは賢そうだった。実際、賢かった。スポットはまったく仕事をしなかった。スポットは働くには賢すぎたのだ。

俺はあの犬の目をじっくり覗き込んだときがあるが、あの目から輝き出ている知恵が見えたとき、背骨の隅から隅まで寒気が走り、骨髄が酵母みたいにムズムズと這ったものだ。あの知恵について俺は語るべき言葉を持たない。あれはおよそ言語を絶している。俺にはそれが見えた、としか言えない。奴の目を覗き込むのは時に、人間の魂に見入ることに似ていた。

 

それでもなお、俺は一種の仲間意識を感じた。いや、センチメンタルな仲間意識ではない。それはむしろ、平等な者同士の繋がりだった。あの目は決して、鹿の目のように嘆願したりはしなかった。あれは挑む目だった。反抗とは違う。それはあくまで、静かに平等を前提とする態度だった。 

スポットはいつのまにか橇犬たちのボスになっていた。何匹かの橇犬には生々しい噛跡があった。他の犬たち全員を屈服させていた。

仕事をしないスポットにスティーヴは鞭を喰らわせた。そのことで俺とスティーヴは初めて言い争った。犬は大食いで、狡猾な泥棒だった。スポットに食料を奪われた。他所の野営地からも食料を奪い、俺たちはその弁償をさせられた。見栄えがいい犬だったので、簡単に売り払うことができたが、数日たつとスポットは俺たちのもとに戻ってきた。それを何度も繰り返した。冬のある日、スポットは食料置き場から食料を奪い去った。俺たちは餓死しかけた。もう犬を食べるしかなかった。そう決断すると、スポットはまるで状況を察知したかのごとく消えていた。俺たちは他の橇犬を全部食べてしまった。

 

感想その他

簡単に言えば、それなりに上手くやっていた「俺」とスティーヴの間にスポットという犬が割り込んできて、その犬に振り回された挙句、二人の仲も解消した、というところだろうか。それはどうしてかというと、答えは簡単で、スポットは犬のような犬ではなかったからだ。スポットは終始、犬扱いされることを拒む。平等に扱われることを、他の犬がすることをしないで、俺とスティーヴにわからせようとする。そのことを二人にわからせるために絶対に死なないし、売られても、川に流されても、島に取り残されても、絶対に二人のところへ戻ってくる。二人は、男二人+X の生活に嫌気がさし、それが耐え難いものになったのだ。

ここでは犬だからといって犬扱いされることを絶対的に拒む犬の姿勢が眩い。よく考えれば、ここでの「犬扱い」はあくまでも人間が想定したもので、他の橇犬たちが「そうだから」といって、スポットが他の犬と同じことをする義務はないのだし、人間にもそれを強要する権能はないのだ、と改めて、このジャック・ロンドンの短編小説は、物語を超えて、こういったあたりまえのことを確認させてくれる。

○○だからといって、○○○に勝手に強引に包摂され、アメリカ人のモノマネをする義務も、それを強要する権能も、どこにも何もない。そのことは絶対的に確認しておかなければならない。誰が他人を犬扱いしているのか?

 

データ

柴田元幸 訳、『犬物語』(スイッチ・パブリッシング)所収 

 

エドガー・アラン・ポー : 群衆の人

概要

「わたし」はロンドンにある某ホテルのコーヒーハウスから街路の群衆を観察している。群衆をまず巨大な集合体として捉え、それから群衆が集合体としていかなる関係性を示していくのか、目を凝らし、細部を詮索する。何様だかわからないが、しかしわたしはこうやって群衆を「種族」ごとに識別し、群衆の分析にのめり込んでいく。

そうしているうちに、わたしは70歳前後の老人に眼を遣った。老人の独特の表情に惹きつけられた。なぜだか魅了された。

やがてわたしは、この男をずっと観察していたい──もっともっと彼のことを知りたい──と感じるようになり、いても立ってもいられなくなった。 

 わたしは追跡をスタートさせる。老人の身なりは全体的に汚らしいボロを着ているが、なぜか肌着は上等の生地でできているようだ。老人は無目的に通りを横切ったり戻ったりしている。ときに老人とは思えぬ動きで疾走する。商店街をうろつき空虚な視線を商品に投げかける。不審だ。不穏だ。これが犯罪の匂いだろうか? すでに追跡は一時間半以上経っているが、わたしは天然のゴム製の防水靴を履いているので音もなく動き回れる──だから老人はわたしの追跡に気づいていないはずだ。群衆をかきわけながら、わたしは老人の後を追っていく。

11時を過ぎた頃、群衆はまばらになった。街路には人影がほとんど見えない。すると老人は顔面蒼白になった。なぜか。それは老人が「群衆の人」だったからである。群衆がいないと生きていけない人間だったのである。しばらく進むと劇場があり、閉館の時間になって夥しい観客たちが外へ出てきた。老人はその群衆のなかに身を投げ、その群衆の中であえぐように息をした。まるで水を得た魚のように。

この老人は深い罪の典型であり本質なのだ、とわたしは思う。

 

感想その他

このエドガー・アラン・ポーの『群衆の人』は、読んでいて次に何がどうなるのだろう、と思っていたら、最後、彼は群衆なしでは生きられない「群衆の人」でした、ということになって、えっと、これはそういう不思議な人/可哀そうな人がいるよという奇想小説なんだ、といちおう了解したのだけど、解説を読んでなるほど、と思った。解説によれば、ヴァルター・ベンヤミンがこの『群衆の人』を詳細に検討しており、そこで彼は「推理小説のレントゲン写真」というキーワードでこのポーの短編小説を読み解いているのだという。たまたまそのベンヤミンの本をもっていたので、その部分を参照すると、

ポーの有名な短篇「群衆の人」には、探偵物語のレントゲン写真のようなところがある。探偵物語がまとっている衣装、つまり犯罪が、この短篇には欠落している。残っているのは骨組みだけだ──追跡者、群衆、そしてひとりの未知の男。この男はロンドンを歩きまわるが、いつでも群衆のなかにいるような工合に、道をとっている。この未知の男こそ遊民〈自体〉である。……。ある人間は、探し出されるのが難しくなるのに比例して、嫌疑の種になる。

 

野村修 訳「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(岩波書店ボードレール』所収)*1

 

 個人的にはレントゲン写真よりもハーブリッツなんかが撮った肉体の写真の方が楽しく見れるかな。ポーの作品だったらやっぱり『モルグ街の殺人』や『黒猫』は面白い。笠井潔の『群衆の悪魔』は未読。なので近いうちに読んでおきたい。

そういったこととは別に、このポーの『群衆の人』でなぜか印象的だったところを挙げるtすれば、最初のほうで「わたし」が勤め人という種族を観察するところ。「わたし」は新興企業の若い連中と、大会社の勤め人とを分類する。これ、風俗は現代とは微妙に異なるけれど、それでも、それぞれのファッションから導かれるメンタリティみたいなものは、現代に当てはめても──当てはめることが適切かどうかは置いておいて──さほど違和感がない気がする。とくに新興企業の勤め人を表する「能率」というのは、この言葉で様々な事象との親和性を占うのに時空を超えて適しているはずだ。

 

データ

巽孝之 訳、『モルグ街の殺人・黄金虫』(新潮社)所収 

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

 

 

*1:

ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)