The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

エドガー・アラン・ポー : 群衆の人

概要

「わたし」はロンドンにある某ホテルのコーヒーハウスから街路の群衆を観察している。群衆をまず巨大な集合体として捉え、それから群衆が集合体としていかなる関係性を示していくのか、目を凝らし、細部を詮索する。何様だかわからないが、しかしわたしはこうやって群衆を「種族」ごとに識別し、群衆の分析にのめり込んでいく。

そうしているうちに、わたしは70歳前後の老人に眼を遣った。老人の独特の表情に惹きつけられた。なぜだか魅了された。

やがてわたしは、この男をずっと観察していたい──もっともっと彼のことを知りたい──と感じるようになり、いても立ってもいられなくなった。 

 わたしは追跡をスタートさせる。老人の身なりは全体的に汚らしいボロを着ているが、なぜか肌着は上等の生地でできているようだ。老人は無目的に通りを横切ったり戻ったりしている。ときに老人とは思えぬ動きで疾走する。商店街をうろつき空虚な視線を商品に投げかける。不審だ。不穏だ。これが犯罪の匂いだろうか? すでに追跡は一時間半以上経っているが、わたしは天然のゴム製の防水靴を履いているので音もなく動き回れる──だから老人はわたしの追跡に気づいていないはずだ。群衆をかきわけながら、わたしは老人の後を追っていく。

11時を過ぎた頃、群衆はまばらになった。街路には人影がほとんど見えない。すると老人は顔面蒼白になった。なぜか。それは老人が「群衆の人」だったからである。群衆がいないと生きていけない人間だったのである。しばらく進むと劇場があり、閉館の時間になって夥しい観客たちが外へ出てきた。老人はその群衆のなかに身を投げ、その群衆の中であえぐように息をした。まるで水を得た魚のように。

この老人は深い罪の典型であり本質なのだ、とわたしは思う。

 

感想その他

このエドガー・アラン・ポーの『群衆の人』は、読んでいて次に何がどうなるのだろう、と思っていたら、最後、彼は群衆なしでは生きられない「群衆の人」でした、ということになって、えっと、これはそういう不思議な人/可哀そうな人がいるよという奇想小説なんだ、といちおう了解したのだけど、解説を読んでなるほど、と思った。解説によれば、ヴァルター・ベンヤミンがこの『群衆の人』を詳細に検討しており、そこで彼は「推理小説のレントゲン写真」というキーワードでこのポーの短編小説を読み解いているのだという。たまたまそのベンヤミンの本をもっていたので、その部分を参照すると、

ポーの有名な短篇「群衆の人」には、探偵物語のレントゲン写真のようなところがある。探偵物語がまとっている衣装、つまり犯罪が、この短篇には欠落している。残っているのは骨組みだけだ──追跡者、群衆、そしてひとりの未知の男。この男はロンドンを歩きまわるが、いつでも群衆のなかにいるような工合に、道をとっている。この未知の男こそ遊民〈自体〉である。……。ある人間は、探し出されるのが難しくなるのに比例して、嫌疑の種になる。

 

野村修 訳「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(岩波書店ボードレール』所収)*1

 

 個人的にはレントゲン写真よりもハーブリッツなんかが撮った肉体の写真の方が楽しく見れるかな。ポーの作品だったらやっぱり『モルグ街の殺人』や『黒猫』は面白い。笠井潔の『群衆の悪魔』は未読。なので近いうちに読んでおきたい。

そういったこととは別に、このポーの『群衆の人』でなぜか印象的だったところを挙げるtすれば、最初のほうで「わたし」が勤め人という種族を観察するところ。「わたし」は新興企業の若い連中と、大会社の勤め人とを分類する。これ、風俗は現代とは微妙に異なるけれど、それでも、それぞれのファッションから導かれるメンタリティみたいなものは、現代に当てはめても──当てはめることが適切かどうかは置いておいて──さほど違和感がない気がする。とくに新興企業の勤め人を表する「能率」というのは、この言葉で様々な事象との親和性を占うのに時空を超えて適しているはずだ。

 

データ

巽孝之 訳、『モルグ街の殺人・黄金虫』(新潮社)所収 

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

 

 

*1:

ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)