The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

ミュリエル・スパーク : 双子

概要

一人称の語り手「私」が学生時代の友人ジェニーを訪ねる。ジェニーはサイモン・リーヴズと結婚し、二人の間には双子の子供マージーとジェフがいる。幸せを絵にかいたような、とでも表現したい理想的な夫婦と、黙っていられないほど愛くるしい女の子と男の子が暮らしている家だ。楽しい滞在になるはずだった。にもかかわらず、私は次第に微妙な違和感を、その家族に感じ始める。

最初はマージーが自分にお金をくれ、と言ってきたことだ。女の子はその理由を言わなかったので、私が断ると、ジェニーがやってきてパン屋に支払う小銭がなかったので「そう言って」お金を借りてきてちょうだい、と娘に言ったのだという。そういう話だったのなら……と私はきちんと説明しなかったマージーを責めることもできず、ジェニーはジェニーで自分のことをケチだと思っているのかもしれない、と、どちらに転んでも妙な居心地悪さを私は感じる。男の子ジェフもマージーと同じような振る舞いをし、私は、またしても気まずい思いをする。

数年後、私はジェニー一家を訪れる。ここで私は前回以上の手の込んだ「仕打ち」を、その家族から被る。そういうことをするのは双子の子供たちだけではなかったのだ。私は逃げるようにそこから去る。

 

 感想その他

最初は子供特有の悪戯に見えたものが、そうではなかった。微妙な食い違いに見えたものが、実は、そうではなかった。「私が実際に言ったこと」が微妙な齟齬をきたして彼らに伝わり、「私が実際に見たこと」が微妙な食い違いを見せながら彼らの了解事項になっていく。「彼ら」は意図的に「私」をそういう状態に置いているのだろうか。そうだとしたら、これは精神的拷問と言えるのかもしれない。明白な齟齬や明白な食い違いと異なり、微妙な齟齬や微妙な食い違いというものは「もしかしたら私が間違っていたのかもしれない」という気にさせられる。「私が悪かったのかもしれない、そう多分」と何度も何度も思わされる。「もしかして私は邪悪な人間で、この絵にかいたような理想的な家族に嫉妬し、家族の間に不和をもたらしているのかもしれない」と自責の念に囚われる。そう仕向けられる。それは精神的拷問に他ならないだろう。ただ、このミュリエル・スパークの短編『双子』には、どうして彼らがそんなことをするのか、という説明はいっさいない。

冒頭には「私」の回想が短く記されている。それによれば学生時代のジェニーは行儀がよくて聡明、ホッケーこそ苦手だったが善良で温和だったので学校の全員に好かれたとある。ここから読み取れるのは……「私」はジェニーとは違ってそうでなかった、ということだ。

アガサ・クリスティの某有名作品を読んで以来、一人称の小説で「微妙な齟齬」が現れた場合は、いちおう警戒する。

 

データ

The Twins

木村政則 訳、『バン、バン! はい死んだ』(河出書房新社)所収  

バン、バン! はい死んだ: ミュリエル・スパーク傑作短篇集

バン、バン! はい死んだ: ミュリエル・スパーク傑作短篇集