The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

ミュリエル・スパーク : 首吊り判事

概要

新聞は死刑の宣告を下したサリヴァン・スタンリー判事の表情を見逃さなかった。まるで幽霊を見たかのような顔であり、明らかに動揺を見せていた、と書く新聞もあった。死刑の宣告が重荷だったのではないか。死刑制度に疑義があるのではないか、と憶測が飛び交う。

しかし何のことはない。スタンリー判事が死刑の宣告をしたとき特別な表情を見せたのは、そのとき彼は勃起し、性的な絶頂に達してしまったからだった。

どうしてそんな経験をしてしまったのか。むしろ問題はそちらのほうだ。絞首刑の判決を言い渡したとき、どうして性的に興奮し、絶頂に達してしまったのか。スタンリー判事は「あの快感」の原因を読み解く。そのため、自分が絞首刑に追いやった被告人が犯したとされる「泥の河殺人事件」を振り返る。

 

感想その他

最初、一読したとき、勘の鈍い僕は何も読み解けなかった。え?っていう感じだった。そして、少したって、わかった。これは精神分析を小馬鹿にした小説なんだと。つまり小説から何かを読み解こうとすることの愚かさを読者に体験させるために特別仕様で誂えた小説なのではないか、と。そう考えると……俄然、見えなかったものが見えてくるし、読めなかったものが読めてくる──それはつまり「○○○○」ということなのだが。

この『首吊り判事』でミュリエル・スパークはいかにも精神分析的なパズルのピースをちりばめる。スタンリー判事の性的興奮もそうだし、「泥の河殺人事件」の被告ジョージ・フォレスターについてもそうだ。若くハンサムなジョージ・フォレスターは大柄で肥満した中年の未亡人3人を殺したとされている。いかにも何か性的に意味ありげな感じである。しかし、作者スパークが記す事実によれば、どうやら、フォレスターは犯人ではなさそうである。それなのになぜ、フォレスターが犯人にされたというと、本人に捕まえてほしいという「願望」があったからだと当局が読み解いたからである。そこに偶然の一致というものも加わる。

ここで重要なのは客観的な証拠によればフォレスターは完全に無罪なのに、精神分析的にはフォレスターは完全に有罪だということだ。そして作者はこういう「客観的な証拠」をダメ押しでいくつも出してくる。精神分析的に読み解こうとすると、スパークはそれに対する「客観的な証拠」を意地悪く出してくる。では、そもそも、「泥の河殺人事件」なるものはいったい何だったのか?

で、その上で、スタンリー判事は「あの快感」をもう一度味わいたいと、かつてジョージ・フォレスターがしたとされる行動を真似る。「あの快感」はスタンリー判事が死刑の判決を下したジョージ・フォレスターの行為と何か関係があるはずだ。「あの快感」の原因を読み解く鍵はフォレスターの行動にある、と。

だから判事はフォレスターがかつて泊まったホテルを訪ね、同じ食堂の同じ席に座る。すると近くの席に中年女性がやってくる。スタンリー判事は彼女に「もしかしてクラシー夫人ですか」とジョージ・フォレスターに殺された女性の名前を口にする。もちろん否定される。だが、スタンリー判事は、自分が今座っている席は、かつてジョージ・フォレスターの席だと言い聞かせる。すると「ある記憶」のクロスワードパズルが解ける。性的な興奮がやってきて、判事は絶頂に達した。事実をいえば、スタンリー判事は70歳になろうとしている。

 

データ

木村政則 訳、『バン、バン! はい死んだ』(河出書房新社)所収 

バン、バン! はい死んだ: ミュリエル・スパーク傑作短篇集

バン、バン! はい死んだ: ミュリエル・スパーク傑作短篇集