The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

日影丈吉 : 猫の泉

概要

写真家の「私」は、パリに住んでいる知人からニースで日本から来た学者に会ってくれと頼まれた。しかし私がニースの指定されたホテルについてみると、当の学者は二日前に発った後だった。このままパリに帰るか、それともアルルでも行ってローマ時代の遺跡の写真を撮ろうかと迷っていたところに、浅黒い見た目ギリシャ人のような男に声をかけられる。男はマントンから来たという。私がアリスカンの写真を撮りたいと言うと、マントンから来た男は、アリスカンと言えば……ヴァンスの奥の奥に中世時代そのままの、孤立し、住民も自給自足で、不思議な生活習慣を持った……ヨンという町のことを人づてき聞いたことがある、と説明しだした。なんでもチベット猫がたくさんいるって。

古代の遺跡のある中世の町、そして猫がいる。人間嫌いで人間以外を被写体に収めてきた写真家の私は「写欲」を刺激された。

 

まだ若く「写欲」に飢えていた私は数々の困難を乗り越え(交通手段だけではなく、そもそもヨンという町のことを知っている人を探さなければならなかった)、ヨンの町を探し出し、ついに見つけた。

小さな町だった。高い時計塔のある庁舎、小さな鐘楼のついた小さな教会、それを囲むような民家。たしかに町の形をしている。町自体は存在していた。しかし広場には誰もいない。町全体がひっそりと静まり返っていた。おそるおそるヨンの庁舎に入ってみると「他所者(エトランジェ)だ!」と驚かれ、そして歓迎された。町長と呼ばれる者、書記と自称する者、そして聖職者に、私がここへやってきた事情を話すと、あちら側もヨンの事情を話した。広場には30人ほどの老若男女が集まっていた。それがヨンの町の住民全員だった。

町長は私に頼み事をする。ヨンの町の習慣では10人目にやってきた旅行者ごとに町の運命を占ってもらうことになっている。私は30番目の旅行者だった。300年前に建てられた庁舎の大時計の時を打つ音を聴いて、その意味を探って欲しい、と。

私は何度がトライしてみたが大時計はガッタン、ルールー、グルール、グルルールと「単なる音」を響かせているだけだった。だが、何回目かに、機械の音がこう囁いているのを聴き取った。

去れ、若者よ、洪水、大時計

 

感想その他

超自然的な話なのだが、ヨンの町の出来事に入るまでに、かなり周到な手続きを踏んで、それは事実なのかそれとも空言なのかを曖昧にさせ、解釈に幅を持たせている。そういえばヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』も本筋に入る前が意外に長かったことを思い出した。

この『猫の泉』では、まず「私」の記憶違いの可能性が示唆される。そして人間の目とカメラの目の違い。私はこう述べる。

つまり私には、あの小さな暗箱を通して、存在するものを見るのが、気やすかったからなのか──たぶん、そうだろう。が、でなかったら──われわれの社会のすきまに侵入し、充填していながら、われわれの気づかない非人間的なもの──いいかえれば、われわれがその存在のすきまに侵入し充填しながら、その本質に気づかないもの──を、血のかよわぬ眼球を通して、探しもとめていたのかも知れない。

 こういう自問自答は「信頼できない語り手」の典型的なパターンですね。それと、もし、…が猫ならば当然無信仰ですよね。

 

データ

日下三蔵 編『怪奇探偵小説名作選 8 日影丈吉集』(筑摩書房) 

 

ダフネ・デュ・モーリア : 笠貝

概要

カサガイ類は、アワビ類と同様幅の広い腹足で岩盤などの基質に強力に吸着して生活している。これは生活している基質から離れることを前提とせず、傘型の殻を引き剥がすのが困難なほど岩盤などに密着させて身を守っているのである。従って、多くのらせん状の殻を持つ巻貝類が持つような蓋を持っておらず、殻の奥に身を潜ませて蓋で殻の口をふさぐことによって身を守ることはない。

こうした身の守り方をしているため、カサガイ類を意味する英語の limpet は「しつこくまといつく人」、「地位にかじりつく役人」などを指す語としても転用されている。

  

カサガイ - Wikipedia

上記のウィキペディの説明でこのダフネ・デュ・モーリアの『笠貝」の内容をほぼ言い尽くしている。

「わたし」は40歳に近い女性。「わたし」はこれまで関わりのあった人たちについて順々に語っていく。「わたし」は善意でもって自然と彼らに近づき、善意でもって彼らを自然に操り、「わたし」の善意によって彼らは自然と破滅していく。身近な家族から首相候補の政治家まで。

 

感想その他

特に上手いなと思ったのは、ロンドンに住みたくなった「わたし」がロンドンで一人で住んでいるマッジ伯母さんに取り入るところ。独り暮らしの伯母さんに「強盗が怖くない?」と自然に切り出し、そんなことを考えたことがないと言う伯母さんに対して、それにいかにも驚いた顔をして「だったらそろそろ考えたほうがいい」と警告、こんな事件があったと新聞記事の話をするうちに、伯母さんはすっかり「わたし」の術中に落ちている。さらにダメ押しで、一人暮らしで転んで脚でも折ったら何日も発見してもらえないから、と。

もちろん、これだけではマッジ伯母さんに吸着しただけだ。「わたし」に吸着された者は、そのあまりに執拗な吸着の仕方によってボロボロになる運命にある。運命なので「わたし」が直接手をくだしたわけではないが、「わたし」が伯母さんに吸着しなかったら伯母さんは早死しなかっただろうということが次第にわかってくる。このエピソードは1939年の戦争中のことで「敵軍は真っ先にヴィクトリアを狙う」と「わたし」はマッジ伯母さん(と母親)に指摘し、二人にデヴォン州に避難するよう命じる。ところが伯母と母親が滞在していたアパートに爆弾が落とされ、二人は亡くなった。「わたし」もヴィクトリアの家も無事だった。さらに、二人が亡くなったことで「わたし」は神経衰弱に陥り、少女や若い女性への徴兵から免れることになった。

こういった具合に、一つ一つの(一人一人に対する)「わたし」の笠貝としての吸着ぶりが、いやーな感じで次々と描かれていく。しかも「わたし」自身は意識していなさそうであるが「いかに他人の弱点を見つけそれを突くこと」を学習によって次第により上達させているようだ。そしてこのような「わたし」が、笠貝を象徴する意味になっている「しつこくまといつく人」を地で行くように、マスコミ関係の仕事を得、有名人のゴシップに通じてくると、もはや世界征服も……という感じになってくる。実際には英国政界どまりだったが。

 

データ

務台夏子 訳、『人形 デュ・モーリア傑作集』(東京創元社)所収 

 

泉鏡花 : 外科室

概要

語り手は画師である「予」。「予」は自分と「兄弟もただならざる」医学士高峰が執刀したある外科手術について、画家としての視点を利点に、その手術の一部始終を描写する。
患者は貴船伯爵夫人。「予」は華族の人間がどれほど絵になるのかを、夫人を取り巻いているお付の者たちの忙しなさ、夫人を受け入れている病院側の緊張感とともに手術台の貴船伯爵夫人へ焦点を移す。気高く、清く、貴く、うるわしき病者のおもかげ。
そんな気高く、清く、貴く、うるわしき伯爵夫人は、病院にいて、手術台の上に横たわり、執刀医や看護婦が手術の準備を整えているのにもかかわらず、この土壇場で麻酔を拒む。麻酔をするのなら治療をしなくてもいい。体がよくならなくてもいい。そう言い放つ。

え? なぜなんだろう、という読者の疑問に「予」が伯爵夫人から言質を取る。
なぜなら、麻酔をすると譫言を謂ってしまう恐れがあるから。私は心に秘密がある。その秘密を麻酔で昏倒している間に謂ってしまうことが、怖ろしいから。その秘密を守ることは死にも代えられない。
そういう伯爵夫人に対し伯爵は娘を呼んで娘に母親を説得してもらおうと試みる。伯爵夫人は娘を連れ来る必要はない、麻酔なしで手術を受けると強い口調で言う──執刀医が高峰であることを確認して。
伯爵夫人は周囲のやんわりとした説得も、力づくの説得も受け入れない。絶対に受け入れない。どういう病気を患っているのかはよくわからないが、気力はしっかりとしているようで、伯爵夫人は毅然とした態度を見せる。その死をも覚悟して麻酔を断る伯爵夫人を望み、高峰医師は「看護婦、メスを」と手術台へ近づく。「予」は世にも美しい麻酔なしの手術を仔細に描く。

 

感想その他

この泉鏡花の『外科室』は「実は……」で始まるのでそれに合わせて言っておくと、実は僕は泉鏡花を読むのはこれが初めてだった。文語なので最初は読み難く感じたが、慣れると(慣れるのも早く)、そのエレガントな文章を味わいながら、心理サスペンス的なストーリーに魅了され、一気に読んでしまった。鏡花ってこんなに面白かったのか。もっと早く読んでおけばよかった。

著名な日本文学の古典に今さら何をっていう感じであるが、やはり手術の場面はすごかった。とくに以下は名文でしょう。

雪の寒紅梅、血汐は胸よりつと流れて、さと白衣を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:外科室

倉橋由美子 : 醜魔たち

概要

「ぼくはまるで貝のなかにとじこめられた醜魔だった。そしてぼくの醜さはたぶんぼくの絶望好みのためだったのだろう。いうまでもないがそれはあの貝の外にある堅固な世界と日常生活の進行に対する嫌悪から生まれたものだった」と語り手の「ぼく」は語る。それに続けて「だがそのぼくを《愛》という釣針で釣りだして現実世界にしっかりとつなぎとめることに成功した少女がある。そのときからぼくの真の絶望がつづいている」。「ぼく」は17歳の夏に経験したある出来事を語る。

「ぼく」は名目上、受験勉強のために岬の別荘で過ごしている。「ぼく」の両親は醜い離婚裁判の最中で、この別荘にはいない。そんな両親に反抗するように、「ぼく」は受験勉強よりも体を鍛え、大量の本を読み自我を肥大させていく。心身ともに「重量」になっていく。醜悪な両親への呪詛の言葉を吐く。あの男とあの女は……。

岬の別荘には「ぼく」とほぼ同い年の少女Mが通う。「ぼく」とMは、爆発する星雲や電波星雲、膨張する宇宙、存在、虚無……といった形而上学的な会話をする。そういった形而上学的な語彙で「ぼく」はMとの性行為について語る。形而上学的な語彙が豊富な「ぼく」の語るMとの性行為は、語り手がそうであるはずの男性の身体の様子や男性の性欲までもが形而上学的に語られ、その趣旨は「こうしてぼくはMのものになった。これはいいちがえではない。ぼくがMをものにしたのではなく、Mがぼくをものにしたのである」に帰結する。

ある日、「ぼく」とMは岬へと向かう。その日は台風がやってくるはずだった。相変わらず形而上学的な語彙で物事を語るので、どこまでが岬での遊泳なのか、どこからが岬での性行為なのかの境界線がはっきりしないしないが、その岬で、その行為の後、「エクスタシイの鳥と化して飛翔」した「ぼく」は「太陽の死骸」を発見する夢を見る。(「太陽の死骸」を発見したのだから、普段毎日みている太陽は「にせの太陽」ではないか、という推論を大真面目に記す17歳の少年は、ここに、この物語全体を読み解く鍵を読者に提供しているのではないか?)。

台風の去った次の日の朝、「ぼく」とMは浜辺を散策する。すると浜辺には黒人の少年が打ち上げられていた。どうやら近くの感化院から台風の混乱に乗じて脱走してきたらしい。少年の下半身を見てしまった「ぼく」とMは、少年を別荘に連れて帰る。胸のポケットにQの文字があったので「ぼく」はその黒人少年をQと呼ぶ。

Qは「ぼく」の創りだした「にせの女」であり、したがって「女たちが白い皮膚で包んでいるあの不気味なくらやみを外側にもっているのだ」、と「ぼく」は「認識の儀式」を執り行う。そのように想定したQとの性行為も形而上学的な表現がなされるが(薔薇色の肉のナイフとか操縦桿とか)、Mとのときとは違い、Q相手では「ぼく」は能動的な役割であることが読み取れる。

数日後、QがMと性行為をしているのを「ぼく」は見つける。そのときのMの表情から「ぼく」はある命令を読み取った。Mの命令どおり「ぼく」はQを殺した。その後、「ぼく」とMは結婚し夫婦になった。

 

 感想その他 

17歳のときの出来事を語る「ぼく」はいい大人のようだが(あれから20年経つといいう表現があるから現在は37歳くらいか)、一人称の文体は思春期特有の……厨二病さ全開で、まるでウィリアム・ブレイクの絵を思わせる幻視の世界が築かれる。とくにあの「太陽の死骸」の場面の世界の終わり感がすごい。しかもこの壮大な「世界の終わり」は、最初の方で「ぼく」が父親を呪詛するときの「放射性精子をまきちらす睾丸の破裂」とリンクしているようで、それをそうだと考えると、同じように作者がどこにどのような仕掛けを施して、どれとどれをリンクさせているのかをすべて読み解きたくなる。たしかに「ぼく」の父親の睾丸が破裂していたら、「ぼく」はこの世に生まれず、したがってこの世界はなかったであろう、と考えるのは厨二病と親和性がありそうだ。

ところで、小説の最後では「ぼく」とMは夫婦という関係になっていることが記されている。Qを殺した夜、「ぼく」はMを《妻》という言葉で呼ぶほかないことを悟る、という説明もある。一方、小説の冒頭ではMという少女との出会いから「真の絶望がつづいている」と「ぼく」は語っていた。あれから20年経ったのならば「ぼく」とMとの間に17歳くらいの息子がいても不思議ではない。

 

データ

『夢のなかの街』(新潮社)所収 

夢のなかの街(新潮文庫)

夢のなかの街(新潮文庫)

 

 

ハインリヒ・ベル : ローエングリーンの死

概要

病院に少年が運ばれてきた。下半身全体が血まみれで脚はつぶれていた。少年はひっきりなしに泣き叫んでいた。医師は少年の身体が石炭の粉で汚れているのを見て事の次第を把握した。少年は石炭を盗もうとし、走っていた列車から転落したのだった。

通常より量の多い鎮静剤を注射された少年の目は冴え奇妙な幸福感を湛えていた。病室には医師の他に看護婦と尼僧がいた。尼僧は別の、もう長くはない、おそらく今夜あたりが山場の少女のために病院を訪れていたのだった。

少年は看護婦の質問に答える。母親は死に、兄は今は留守にしている。だから自分は二人の弟のために帰ってご飯をつくらなくてはならない、と。少年の父親については、事情を察した看護婦が質問しなかった。教会の宗派を訊かれ、少年は洗礼を受けていない、と答える。尼僧がそれに反応する。少年は1933年に生まれ、名前はグリーニイだと言った。

実は少年の本当の名前はグリーニイではなくてローエングリーンだった。少年が生まれた1933年は、アドルフ・ヒトラーバイロイト音楽祭に初めて臨席し、あらゆるニュース映画でそのときの映像が映し出された。少年の二人の弟の名前はハンスとアドルフだった。

鎮静剤を打たれた少年は幸福感で泣いた。生まれた初めて味わった感覚だった。ただ、8歳のハンスと5歳のアドルフのことが気にかかる。以前、配給のパンを二人の弟たちが全部食べてしまったときに叱ったことを後悔した。自分が帰らないと、二人のチビたちはお腹をすかせてもパンを食べずに自分のことをずっと待っているのではないか……。石炭を盗むときにルクセンブルク兵に見つからなかったら、よりによってロシア兵でもアメリカ兵でもなく、ルクセンブルク兵に銃撃されなかったら、石炭を売ってチビたちにパンをたくさん買ってやれたのに……。

「ぼくは洗礼を受けていなんだ」うわごとで少年が叫ぶ。尼僧が駆け寄って少年の脈をとる。尼僧はグラスがなかったので試験管に水を入れる。「あなたに洗礼を授けます……」

 

感想その他

これはまず泣かせる小説と言っていいだろう。鎮静剤を打たれた少年が幻覚の中で自分がこれまでどのように生きてきたかを少年らしい言葉で振り返る。その部分は情感を揺さぶらせずにはおかない(タイトルとワーグナーの『ローエングリン』から少年の一生がここで終わるのは予想がつくし)。過去のことを思い出しても、その都度、いまお腹を空かせている弟たちのことが心配になってくる。少年自身が幼いのに、それでも、いまお腹を空かせているより幼い弟たちのことを考え、あのときこうしておけばよかった、あのことをしておくべきだったと少年は悔いる。

そこから自然と次のような「なぜ」が導かれる。

なぜ少年はそんなに苦しみ、それほどまでに後悔しているのか? なぜ少年はそんなに苦しまなければならないのか?

それについては、この『ローエングリーンの死』は1950年に発表されたという事実とその意味はすぐに確認できるだろうし、既知の情報であったならばナチスドイツへの告発というように教科書的に読み解けるだろう。でも尼僧の役割を考えたら(医師と看護婦な病室から出ていき、少年と尼僧の二人だけになる)、誰が誰をどのように告発しているのかも──それが告発なのかどうかも含めて──幅をもって読めると思う。

 

データ

青木順三 編訳、『ハインリヒ・ベル短篇集』(岩波書店) 

ハインリヒ・ベル短篇集 (岩波文庫)

ハインリヒ・ベル短篇集 (岩波文庫)