The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

G・K・チェスタトン : 名前を出せぬ男 ~ 『ポンド氏の逆説』より

概要

「私自身はブルジョワジーに属するから、政治にまだ距離を置いている。現在の状況で進むいかなる階級闘争にも加担したことがない。私には、プロレタリアートの抗議にも、資本主義の現在の局面にも共鳴する理由がない」

「おやおや」ポンド氏の眼に理解の光が射しはじめた。ややあって、彼は言った。「これはまことに失礼いたしました。あなたが共産主義者とは存じませんでしたのでね」

「そんなことを言ったおぼえはないぞ」フスは激して、それから唐突にこう言い足した。「誰かが私を裏切ったと言うんだろう」

「あなたの言葉があなたを裏切っているんですよ、ガラリア人のように」とポンドは言った。「党派というものは、みんな自分の言葉でしゃべるものです」 

 ポンド氏が牡蠣を食べているとき、その牡蠣殻を見てパリでの出来事を思い出した。フランスの首都でポンド氏は3人の個性的な人物と知り合ったのだった。

  • マルキュス 政府を本当に信じている政府官僚の青年
  • フス氏 本屋を営む(いかにもな)ブルジョワ市民
  • ムッシュー・ルイ カフェで緋色の革命派新聞を読んでいる正体不明の男

若き頃ポンド氏が訪れたフランスは君主制を廃し共和政体に取り代わって久しかった。だが、政治的平等を打ち立てただけで問題がすべて解決したわけではなかった。経済的平等に関して共和国は混乱していた。首都パリでは運送業ストライキが起きていた。政府は巨大資本家の言いなりになっていると非難がわきおこっていた。そこへ東欧出身の有名なテロリスト、タルノフスキーが西欧のどこかの国で陰謀を企てているとの情報があり、パリでの運送業ストライキもタルノフスキーの仕業だと政府が主張した。

政府は警察を動員し、スト中の労働者が発行した革命派新聞を差し押さえた。緋色の新聞は発行禁止になった。好戦派として名高い内務大臣コッホ博士が革命派新聞を発行している事務所の手入れの陣頭指揮を執った。だがパリ市内を警官を引き連れ行進しているコッホ博士の眼に、あの緋色の新聞が目に入った。カフェでムッシュー・ルイが平然とそれを読んでいたのだった。

内務大臣コッホ博士はムッシュー・ルイに近づき「お前を逮捕することも、国外追放することもできるんだぞ」と警告した。ムッシュー・ルイは「私はいかなる外国の臣民でもありませんから、国外追放して自国に返すには特別な困難が伴うでしょう」と応えた。

それを目撃したポンド氏は問題を整理する。「第一に、彼はなぜ国外追放されなければならないのか? 第二に、なぜ国外追放されないのか?」

 

感想その他

『木曜の男』のようなストーリーで”韃靼の虎”と呼ばれるテロリスト、タルノフスキーの正体がわかったとき……噴き出したw こういう殺人のない政治的な題材がチェスタトンの手にかかると、おとぎ話になる。おとぎの国では、緋色の革命派新聞を手にした唯一の人物ムッシュー・ルイに、スト中の労働者の群衆が敬礼する。ムッシュー・ルイは言う。「若い友人たちは、いくらか社会主義的な意見で、私の孤独をしばしば慰めてくれるのですよ」。

 

ちなみにポンド氏が牡蠣殻から連想したのは古代アテナイの民主政で行われた貝殻追放陶片追放)のことだった。 

古代のアテネでは、人は時に重要人物だというただそれだけの理由で追放され、投票は牡蠣殻によって記録されたんだ。この場合、彼は重要人物であるために追放されるべきだったが、あまりにも重要だったので、誰にもその重要さを言ってはならなかったんだよ。 

 ところで「ラディカルな政治」には(も)僭主が必要なのか? それとも僭主になりそうな者を陶片追放して真の民主政を敷くべきなのか──それこそが「ラディカルな政治」なのか? 

 

データ

南條竹則 訳、『ポンド氏の逆説』(東京創元社)所収 

 

 

関連エントリー

 

江戸川乱歩 : 二癈人

概要

肉体に古傷をもつ男と心に古傷をもつ男が、ある冬の日、温泉場で同宿した。斎藤氏の顔には戦場で浴びた砲弾によって見るも無残な傷跡が刻まれていた。顔だけではなく身体にも刻印された古傷の痛みに悩まされていた斎藤氏は、それでも戦争での武勇伝を語ることができた。同じ廃人でも、戦争での名誉という気休めのある斎藤氏のほうが自分よりましだと井原氏は思う。

今度は井原氏が身の上を語る番になった。大学に入学し、下宿生活を始め、一年ぐらい経ったときのことだった。ある日友人から「昨夜は……だったね」と言われる。井原氏はまったく心当たりがない。友人は笑いながらも、ちゃんとその証拠らしきものをつきつける。結局やったやらないの押し問答になりその件はあやふやになったが、井原氏が不安を覚えるようになったのは確実である。そんなとき、かの友人が「君はこれ迄に寝とぼける習慣がありやしないか」と尋ねる。そういえばそんなことがあったような、と井原氏は子供時代のことを思い出す。するとすかさず友人は「では、それが再発したんだぜ。つまり一種の夢遊病なんだね」と言った。
井原氏の子供時代の「寝とぼける習慣」(A)と友人の言う「夢遊病」(B)は充分に親和性があるのだろう。AとBに親和性がある以上、井原氏は夢遊病者であると自分自身を言い聞かせることができ、そのことによって先日のこともそれで説明できることに気がつかされる。友人の話を聞いているうちに、XがYの原因であるならばYがXの帰結であるというあたりまえのことが、何か新鮮な発見のように思えてくる。
AならばBと親和性がある。Bならば任意の事象nが成り立つ。ゆえにあらゆるものがBと親和的でなければならない。井原氏は自分が夢遊病者であることを確信した。
井原氏は自分が夢遊病であることを恥じ、また恐れた。もともと神経質だったので病気が昂じることを気に病んだ。しかし彼の夢遊病は昂じてしまった。井原氏は同じ下宿に住んでいる人たちの物を盗むようになる。朝起きると彼の枕元に、夢遊中に盗んだとおぼしき品物が置いてあった。件の友人に頼んで自分は夢遊病者であることを証明してもらい、盗んだ品物を持ち主に返した。それ以降「井原は夢遊病者だ」という噂が広がった。これにより自他ともに井原氏は夢遊病者になった。
事態は悪くなる一方だった。夢中遊行の範囲が広がり、他人の品物を持ち帰り、さらに自分の持ち物もどこかに落してくる。深夜、井原氏がうろついていたことも目撃された。もちろん井原氏はそれらのことをまったく覚えていない。井原氏は不安な気持ちで夢遊病に関する本を読む。そこには盗みのような軽犯罪だけではなく、血腥い事例も書いてあった。井原氏は自分の夢遊病がより亢進するのを恐れた。そんなとき井原氏の下宿である老人が殺された。井原氏の枕元には殺された老人の持ち物らしき風呂敷袋が置いてあった。


感想その他
井原氏は夢遊病者であった自分が犯した殺人事件を語り、斎藤氏がそれを読み解く。するともう一つの真相が浮かびあがってくる。井原氏はその整ったまるで手品のタネ明かしのような論証に唖然とするも、その真相を受け入れざるを得ない。同時に、そのような仕掛けを考えた真犯人の機智を井原氏は賛美しないではいられない。
そうするとこれはハッピーエンドだな。この二人の男性の微妙な距離感は舞台に向いていると思う。斎藤氏が、なぜ、いま、ここで事件を読み解くことにしたのか、その動機のバリエーションによってラストを少しだけ改変してもいいだろう。あるいはもっと大胆に改変して、明智小五郎のような探偵を登場させ「二人の共謀」を暴くのも面白いかもしれない。

 

データ

青空文庫で読んだ

図書カード:二癈人

泉鏡花 : 化鳥

概要

雨の中、笠と蓑を着て三角形の冠をかぶった猪が橋の上を渡っていくのが見える。少年と母親は、その橋の袂にある榎の下の小さな小屋に住んでいた。間に合わせで作られたような粗造な橋であったが、少年はその橋を「母様の橋」と呼んでいた。母子一家は橋の通行料で生計を立てていたからだ。でも、ときどき「ずるい人」がいて、橋の通行料を支払わずに橋を通り抜けていく。少年の学校の先生もそうだった。「ねえ、母様、先生もずるい人なんかねえ。」
もちろんその先生はずるい。ずるいに決まっている。でも、それを口に出せなかった。なぜなら教師と生徒の間には明白な権力関係があり「そんなことで悪く取って、お前が憎まれでもしちゃなるまいと思って、黙っていました」と母親は少年に告げる。もっとも橋の通行料のことがなくても先生は僕のことを邪見にしている、と少年は母親に訴える。事の次第は以下のようである。
先生は修身の授業で「人間が一番偉い」と言った。
でも少年はそう思わなかった。「だから僕、そういったんだ、いいえ、あの、先生、そうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も、皆おんなじ動物のだって」
馬鹿なことを言うんじゃないの、と先生。だって動物は口をきかない、ものをいわないでしょ。
でも雀なんかは僕のところにやってきてチッチッチッチと何かいって聞かせるじゃないですか。
それはものを言うんなじゃくて、囀るっていうの。
「先生、人だって、大勢で、皆みんなが体操場で、てんでに何かいってるのを遠くン処とこで聞いていると、何をいってるのかちっとも分らないで、ざあざあッて流れてる川の音とおんなしで、僕分りませんもの」
先生は笑いながら、人間には智慧というものがあって動物にはそれがない、だから魚は釣られたり網で採られたりするし、鳥も刺されて、結局人間に食べられてしまう。先生はそう例を出し物分かりの鈍い生徒を教え諭す。
でも魚を採ってる人間は格好が悪いです、と少年。逆立ちになり水に潜り(まるで犬神家の佐清みたいに)足だけが見えている。なんて不恰好なんでしょう。それに比べて金魚や鮎の美しさといったら。それに笠をかぶって釣をしている人なんて茸のようですよ。御覧なさい、あれは土手に生えたイッポンシメジみたいじゃないですか。それが川原に十人も三十人も塊まって動きもしない。あのくさくさ生えている千本シメジみたいなものが智慧のある人間なんですかね。その間、綺麗な魚は悠々と水の中を泳いでいる。
少年は「人間が一番偉い」という決めつけに対し、次々と異議を──そうでないと思っていることを──唱えていく。そして決定的な一言を教師に対して言ってしまった。(人間である)先生よりも花のほうが美しい、と。正直に。こういったことにより少年は学校の先生に可愛がってもらえなくなった。母親は少年に、おまえのほうに道理があるよ、と慰める。
「だって、虚言をいっちゃあなりませんって、そういつでも先生はいう癖になあ。ほんとうに僕、花の方がきれいだと思うもの。ね、母様、あのお邸やしきの坊ちゃんの、青だの、紫だの交まじった、着物より、花の方がうつくしいって、そういうのね。だもの、先生なんざ。」

 


感想その他
鋭敏な感性をもった少年が、それを理解しない体制側を象徴する教師(教師はその職務上、すべて体制側であろう)に異議を唱え、抵抗し、それによっておそらく学校で疎まれるべき存在になってしまっていることは想像がつく。そしてこの少年と教師との間にある相容れなさが個人的に気になった。

少年の主張は以下である(これは少年が母親から受け継いだ「思想」であり、これを反故にすることは少年にはどうしてもできない。この「考え方を共有」していることが、それを両者が十分に自覚していることが通常の母子以上の密着性を感じさせる)。

  • 人間も、鳥獣も草木も、昆虫類も、形こそ変っていてが、すべて同じものである

一方、教師は、

  • 人間が一番偉い

である。

実のところ少年の主張と教師の主張のどちらに是があるか、というのは個人的には、それほど興味がない。というより問題はそこじゃない。なぜなら少年の教師に対する受け答えには飛躍やズレ、粗さがありすぎるからだ。
例えば教師が動物は口をきかないと言ったことに対し、少年は雀が自分たち人間に話しかけると応える。しかし雀がチッチッチと人間に話しかけているように見えるが、それでも実際に少年や他の子供は雀と会話をしたわけではない。囀ることに対しても、体操場で何か言っているのを「遠くで」は聴くことができない、それは川の音と同じだ、というのも説得力を感じない。なぜなら、どんなに川に近づいても川の音は川の音でしかないが、体操場での場合、対象に近づけば何を話しているのか聞き取ることができるからだ。魚を捕っている人は不恰好、釣り人はキノコのよう、それに比べて金魚は綺麗で鮎は精悍でスイスイ泳いでいる、というのも焦点がぼやけている。真の問題はなぜそんな不恰好な人間に魚は投網などで捕られ、キノコのようにもっさりとした人間に魚が釣られてしまうのか、のはずだ。見栄えだけなら人間の水泳選手と比較すればいい。それに花と教師を比べて花の方が美しいというのも、そもそもそれって比較対象になるのだろうか? というのがまずあり、そしてもしそれが効果をもつのだとしたら、少年の論法がルッキズムに依存しているからであろう。

教師は少年の異議に対し、このようにそれこそ赤子の手をひねるように反論できるし、読者も少年の議論の飛躍やズレ、粗さに気がつき、この部分だけ読めば、教師が少年にいちいち反論しないのはそれこそ大人の態度だと読み取ることができるだろう。

しかしこの『化鳥』を最初から読んでいる読者は、そう読めないし、読まない。それは教師が橋の通行料を支払わない「ずるい人」だからだ。見知らぬ者ではなく、教え子の家の橋の通行料である。橋の通行料で細々と生計を立てている母子家庭にとって、それがどういうことか智慧ある教師ならば容易く理解できるはずなのに、それにもかかわらず通行料を誤魔化す「ずるい人」だからだ。しかも教え子である少年が教師が橋を渡るのを見ているのに、それでも通行料を支払わない傲慢さ──まるで「知識のある教師は一番偉い」、だから教え子がその様子を逐一見ているのに通行料を踏み倒しても何の良心も傷まない、知識はずるいことをするために、知識はずるいことをしても何のおとがめも食らわないためにあるようだ。要するに、教師は、教師というその立場を悪用して、橋の通行料を支払わない「ずるい人」である。その事実はどうあっても動かない。

 

私たちは、「クィア理論」が排除だとか浄化だとか「ネオリベラリズムと親和性がある」だとか、そういった知識をどれほど披露したとしても、大学でこれほどまでに非正規雇用者の雇い止めが行われている/いたという事実をこそ直視しなければならない。なぜ、そんな「クィア」との関わりを強要されるのか──なぜそんなものに関りを持つことが当然視され、それがいつのまにか既成事実化されてしまっているのか。そんな横暴は絶対に許せない。

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:化鳥

 

『狐物語』より第1話 ルナールの誕生と子供時代

概要

楽園からアダムとイヴを追放した神は、その後、二人を哀れに思い、一本の棒を彼らに与えた。欲しいものがあったら、その棒で海を叩くように、と。アダムが棒を叩くと一匹の牝羊が出てきた。イヴが叩いたら狼が飛び出し、さっきの羊を捕まえようと森へ走っていった。再びアダムが棒を叩くと犬が出て来て、羊を助けるために狼の後を追っていった。

アダムの手による動物は飼いならされ人間と一緒に生活をする。イヴの手から出てきた動物は野生化する。そのイヴの手から生まれ出てきたのが狐でありルナールだった。狐=ルナールは人をだまし、他のあらゆる動物を見つけ次第だます。狡知や悪巧みに長けているものが狐=ルナールなのである。そもそも人が悪知恵を身に着けたのも狐=ルナールが原因なのである。

そのルナールには宿敵がいる。狼の伯父イザングランである。ルナールとイザングランは親戚関係にあり、以前はそれなりに仲が良かった。ところがそういう信頼関係を利用してルナールはイザングランをだまし、肉の燻製を奪い取った。そうしてばっくれている。これが子供時代のルナールの悪巧みである。

大人になったルナールはイザングランの妻エルサンを愛人にする。誘ったのはエルサンのほうであるが、事を済ませたルナールは子狼に小便をひっかけたり悪態をつき殴り一家の主のように振る舞いやりたい放題。それでもエルサンは「お父さんに言ったりしちゃだめよ」と子供たちに言うが、黙っている子狼たちではない。子狼らは帰ってきたイザングランにすべてを話す。これによりルナールとイザングランは不倶戴天の敵になった。

 

感想その他

いちおう基本的な情報を書いておくと、この『狐物語』は12世紀後半に編纂され、独立した複数の挿話が、それぞれ異なった時期に異なった作者によって作られたものである。それでも中心テーマは狐ルナールとその敵である狼イザングランの宿命の対決で一貫しているという(まだ全部読んでいないので)。

また、この『狐物語』の人気によって、本来は固有名詞であった「ルナール」が「狐」を指すようになり、本来「狐」を指していた「グピ」という単語が廃語になってしまった。固有名詞が普通名詞になった興味深い事例だという。

で、この『狐物語』の第一話は、まず「この物語」の来歴を語り手が話す。パリスとヘレナの話があり、それにトリスタン(とイゾルデ)の物語がありましたね、そしてルナールとイザングランの物語です、という感じに。語り手はある本の中にルナールとイザングランの話を見つけ、そこでは……と物語の内容に入っていく。ルナールの来歴も由緒正しくアダムとイヴから始まり、動物がなぜ人間の言葉を話すのかもきちんと説明する──もちろん神がよしとしたのだが。

内容は、アダムとイヴ、パリスとヘレナ、トリスタンとイゾルデとくれば、ルナールの子供時代を除き、それらに連なるようにルナールの性遍歴というべきものである。しかもルナールは言葉を話す動物なので、やりたい放題。動物だからあんなこともこんなことも平気でやれるし、やってもいいと、作者(たち)は絶好のキャラクターを使って、おそらく自分たちがしたくてもできないことを描いている、ような感じだ、今のところ。

 

データ

鈴木覚、福本直之、原野 昇 訳。岩波書店 

狐物語 (岩波文庫)

狐物語 (岩波文庫)

 

 

 

ダフネ・デュ・モーリア : 人形

概要

序文で医者らしき人物が、以下の物語はXX湾で発見された文書で執筆者は不明である、と但し書きがつく。文書には判読できない損傷があり、多くの部分は脈絡がないように見え、終わり方も唐突であっけない、と。

 

手記のような物語の語り手は「僕」である。僕はレベッカという女性ヴァオリニストを「愛しすぎるほど愛し、求めすぎるほど求め」た。レベッカによって僕は狂わせられた。あの「聖人を思わせる狂信的な大きな目」「黒く輝き、荒れ狂う、手に負えない髪の光輪」をもった美しいレベッカに。

レベッカのことを考えると、レベッカは僕の一部になる。レベッカのことを考えすぎて、レベッカは僕自身になる。後にストーカーと呼ばれる行為のメカニズムが、ストーカー自身によって語られる──医者がこの文書を公開したのはそのためであろう。

レベッカのあらゆる言動が僕にとって意味を持つ。表情のひとつ、微笑みのひとつひとつに意味がある。それは、僕を耐えがたく苦しめ、同時に輝かしい歓びを僕に与える。彼女の言動は僕に読み解かれることを待っていた。しかしあるとき僕は感づいた。彼女は何か隠している、と。彼女は僕に嘘をついていた。彼女はあらゆる男と寝ていたに違いない。僕は猜疑と嫉妬で苦しむ。なぜなら彼女のあらゆる態度が計算しつくされていたからだ。僕には彼女の心に何があるのか、決して読み解けないことに、いまさらながら気がついた。

僕はレベッカのアパートに押し掛ける。彼女は僕を待っていた、と僕は思う。風変りな服を着たレベッカメフィストテレスのようであり、浮き浮きと部屋を動き回る様子はエルフのようだった。レベッカは唐突に言う「強く愛するがゆえに、その人を苦しめることに歓びを──説明のつかない歓びを感じるってことはある?」

そしてレベッカは、あなたにジュリオを紹介したい、と言った。僕を別室に案内すると、そこには16歳くらいの少年が椅子に座っていた。ジュリオは口が真っ赤に裂け、肉感的にみだらで、にやにやと笑っていた。それはまるでサテュロスの顔だった。ジュリオは人形だった。

 

感想その他

この『人形』はダフネ・デュ・モーリアが21歳のとき、1928年に書かれたものだという。作家としてのデビュー以前の習作であるが、そんなことはまったく感じさせず、ダフネ・デュ・モーリアが書いたダフネ・デュ・モーリアの美品以外の何ものでもない。何よりまだ「ストーカー」という言葉が一般的でない時代に、パトリシア・ハイスミスの『愛しすぎた男』やルース・レンデルの『求婚する男』にはるかに先んじ、ストーカーの心理を、その独善的な論理とその亢進性を(「僕」がレベッカの奏でる音楽を聴いて得た高揚感は明らかに性的なものだろう)、余すところなく描いている。しかも、そのストーカーのような「僕」が、ストーカーのように行動したからこそ発見した「彼女についての事実」が、また淫靡で美しい。

医者が発見した手記という設定が、ところどころにある欠落部分によって、真実を覆い隠すとともに、それを解く謎とサスペンスが生み出されるのも上手い。そしてこのダフネ・デュ・モーリアの『人形』も、最近発見されたものだと知って、そこにシンクロニシティも感じた。

 

データ

務台夏子 訳、『人形 デュ・モーリア傑作集』(東京創元社)所収