The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

太宰治 : 誰

マルコ福音書の中でイエスが「人々は我を誰と言ふか」「なんぢらは我を誰と言ふか」と弟子たちに問う場面がある。それを作者である「私」は、「たいへん危いところである」と分析する。 

エスは其の苦悩の果に、自己を見失い、不安のあまり無智文盲の弟子たちに向い「私は誰です」という異状な質問を発しているのである。無智文盲の弟子たちの答一つに頼ろうとしているのである。

そこから作家自身の自己分析になる。作家は聖書のイエスを真似して「なんじらは我を誰と言うか」と学生に問うてみる。すると偽者、嘘つき、おっちょこちょい、酒乱……といった答えが返ってくる。それらに交じってある落第生が「なんじはサタン、悪の子なり」と言う。他のネガティブなあれこれはいいとして、サタン(悪魔)はないだろう。作家は自分がサタンと言われたことが気にかかる。三鷹の小さな家で金が入ると遊び、金がなくなると少し仕事をして、少し金が入る、するとまた遊び……というようなことばかりやっている自分は本当にサタンのような大物なのか?
作家はサタンについて勉強する。自分がサタンでないという反証を掴んでおきたかったからである。  

  • 天使が堕落するとサタンになるというのは、話が上手すぎて危険思想だな。なぜってサタンが天使と同族だとすると、サタンは可愛らしい河童のようなものになってしまうもの。
  • 辞書引きで知ったかぶりをすると悪魔を表すギリシャ語はデイヤボロスで語源は「密告者」「反抗者」らしい。
  • サタンという言葉の最初の意味は、神と人との間に水を差す奴か。なるほど何事にも水を差してウンザリさせる。そして神と人を離反させるってわけだ。
  • でも旧約聖書の時代、サタンは神と対立する強い力をもっていなかった。旧約の時代ではサタンは神の一部でもあった。
  • ある神学者によれば、旧約以降のサタン思想はペルシアのゾロアスター教の影響を受けている。ザラツストラによる「人生は善と悪との間に起る不断の闘争」はユダヤ人にとってまったく新しい思想だったようだ。
  • ザラツストラの教義の影響によって、エホバが完成した一切の善をくつがえそうとするオルタナな霊的存在を可能にした。それがエホバの敵、すなわちサタンである。うん、簡明な説だ。
  • そして新約聖書の時代、サタンは神と対立し縦横無尽に荒れ狂う存在になる。名前も、デイアボロス、ベリアル、ベルゼブル、悪鬼の首かしら、この世の君、この世の神、訴うるもの、試むる者、悪しき者、人殺、虚偽の父、亡す者、敵、大なる竜……と膨れ上がる。
  • 塚本虎二によれば、サタンは一つの王国を持ち、手下の悪鬼たちを配下に置いている。そのサタンの王国の在り処は諸説あるが、重要なのは、サタンはこの地上を支配しようと企てており、出来る限りの悪を人に加えようとしていることである。

勉強した甲斐があった。自分は、こんなサタンほど偉くはない。自分は、こんなサタンほどの大物でなかった。なぜなら、こんな三鷹でぼんやりして、地元のおでん屋の女中に叱られまごまごしているような自分が、そんなサタンのような大層なものではないことは明らかだ。これによりかの落第生による私=サタン説を論駁した。
いや、まてよ。たしかに自分は絶対にサタンではないが、その手下の悪鬼についてはどうだろう。

わが名はレギオン、我ら多きが故なりなどと嘯ぶいて、キリストに叱られ、あわてて二千匹の豚の群に乗りうつり転げる如く遁走し、崖から落ちて海に溺れたのも、こいつらである。だらしの無い奴である。どうも似ている。似ているようだ。サタンにお追従を言うところなぞ、そっくりじゃないか。

サタンにへつらうといえば……そういえば、先輩に借金を頼み込んだとき、たしかに自分は(サタンに)へつらっていた。それを思い出すと、すぐさま(サタンであった?)先輩宅へ伺い、そのとき自分が先輩宛に書いた手紙を持っていますかと尋ねた。すると先輩が朱筆で添削した手紙を渡された──お前は嘘ばかり書いているから添削しておいた、と。

私はサタンでも悪鬼でもなかった。私は馬鹿だった。

 

感想その他
ゆるい小説なのか、ゆるさを装った狡知な小説なのかは太宰治をほとんど読んでいないので判断ができないのだが、ゆるいと思ったのは確か。ゆるいと思ったのは、どこまでが完全なフィクションで、どこまでが太宰治自身に降りかかった出来事をそのまま書いているのかが、いまいちはっきりしないからだが、もしかしてそれも(それが)狙いなのかもしれない。

とくに面白かったのが、先輩に借金を頼んだ「私」の手紙が、先輩の論評付きで添削され、それが読者に差し出されるところだ。「私」の「狡智の極を縦横に駆使した手紙」の原文をまず読者に読ませ、次に先輩の論評がカッコつきで入った同じ手紙をもう一度読者に読ませる。ここ、前衛小説のようでもあるし、単に枚数を稼いでより多くの金をせしめているようにも思える。そのどちらともとれるようなゆるさに、独特の味がある。

さらに、この『誰』という小説に出てくる先輩は、実在した山岸外史という評論家らしく、ウィキペディアによれば

 『人間太宰治』の中では、太宰の短篇「二十世紀旗手」の冒頭に掲げられた有名なエピグラフ「生れて、すみません。」が、山岸のいとこにあたる詩人寺内寿太郎の一行詩「遺書」(かきおき)の剽窃であることを明らかにした。寺内は「二十世紀旗手」を読んで山岸のもとに駆けつけるなり、顔面蒼白となって「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた」と叫び、やがて失踪してしまったという。

 とすれば、やっぱりこの人、馬鹿じゃなくてサタンだよな、と思った。

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:誰