The Figure in the Carpet

短編小説を読んだから、その感想を書いた

D・H・ロレンス : 木馬を駆る少年

概要

父親に運(ラック)がないために家にはお金がない。その母親の声にならない言葉は家じゅうにひそひそと響き渡り、幽霊のように憑きまとった──「もっとお金がいる! もっとお金がいる!」

ポール少年は「幸運」の手がかりを求める。一心不乱になって、木馬にまたがり、「幸運」を捜し求める。「ぼくを幸運のあるところへ連れていけ! 連れていけ!」と猛然と馬を駆った。少年は「幸運」を欲し、「幸運」を得るために駆り立てられていた。

「やっと、向こうに着けた」悲壮なギャロップが終わりポールは木馬から降りた。母親が、どこに着いたのと尋ねると、少年は「ぼくの行きたかった場所さ」と目をぎらぎらさせ答えた。そして自分には運がある、と母親に言った。

実は、ポールは母親に内緒で庭師のバセットと一緒に競馬をやっていた。ポールは不思議な予知能力でレースを当てた。相当な金を競馬で得ていた。母親のために、運(ラック)のない父親に代わって少年は賭けレースをしていた。ぼくに運が向けば、「もっとお金がいる!」という家のささやきが止むと思い、少年は競馬に駆り立てられていた。それを知ったオスカー叔父は、弁護士を通じてポールの得た金を母親に毎年千ポンドずつ数年に渡って受け取られるよう手配した。しかし母親は全額を一度に得られるよう弁護士に要求した。

ポールの家には新しい家具が入った。ポールにも家庭教師がつけられた。すると家が「もっとお金がいる! もっと、もっとたくさんのお金がいる!」とささやく。その声にならぬ言葉にポールは恐怖する。少年は駆り立てられる。

ある日の夜、パーティから帰宅した母親は、いいしれぬ不安にかられて息子の部屋にそっと行ってみた。息子の部屋からは何か物音が聴こえる。それが何であるのかわかっているはずだし、わかっているような気がした。母親はそっとドアの取っ手を回す。半狂乱になって木馬を駆っているポールがいた。少年は叫び、床にくずれ落ちた。意識を失った少年は脳膜炎におかされていた。うわごとで勝ち馬の名を口走っていた。自分に運がいいことを母親に証明すると、ポールは息を引き取った。「勝ち馬をみつけるために木馬を駆り立てる人生から、やっと抜け出すことができた」とオスカー叔父は言った。

 

感想その他

家がささやき、それを恐れた少年が、それから逃れるために、競馬で金を得るよう駆り立てられ、それに取りつかれ、死ぬ。たしかに幽霊物語、というか意志を持った魔の家のパターンとして読める。加えて、運のない父親に代わって(なり代わって)息子が母親のために金を得る、っていうパターン。また、ロレンス作なので、庭師のバセット青年とポールが二人して秘密裡に賭け事をやっていたということから読み取れるパターン。さらに、少年はもう木馬に乗るような年齢ではないのに、深夜、自室で木馬に乗っているところを母親に視られる、というパターンもフロイトおじさんの担当分野だろう。

どのパターンに依っても、少年がわけのわからない執念に駆り立てられていく様子は、読んでいるこちらも不安になる。そして、もし少年を騎手に見立てた場合、その命を賭けたレースの勝者は誰なんだろう、という容易く思いつく問題よりも、運のない父親が全くと言っていいほど登場しないのが、どんな理由なのか、あるいは理由がなくても、どこか不穏な感じがする。

個人的には冒頭の、母親と子供たちとの関係を「覆い隠す」というキーワードを使って詳しく説明しているところがとくに興味を惹いた──個人的な関心事もあって。 

やせこけた子供たちがいたが、それも無理におしつけられたもののような気持ちがつきまとって、どうしても好きになれなかった。子供たちは彼女の欠点を見つけでもしたかのように、冷たい眼で彼女をながめた。そこで彼女は、あわててその欠点をおおい隠さなければならないと感じるのである。だが、そのおおい隠さなければならないものがいったい何なのか、彼女にはわからなかった。にもかかわらず子供たちを前にすると、心の中心部がこわばるのをおぼえるのが常だった。彼女は当惑した。それだけにいっそう、一見子供たちを溺愛してでもいるかのように、その態度に優しい心づかいをみせるのだった。 

 

 

データ

矢野浩三郎 訳、『怪奇と幻想 第3巻 残酷なファンタジー』(角川書店)所収

 

江戸川乱歩 : 白昼夢

概要
晩春の蒸し暑い日の午後、語り手の「私」は、どこまでもどこまでも真っ直ぐに続いている広い大通りを歩いていた。途中、道の真ん中では、お下げの女の子たちが輪になって「アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……」と歌っていた。男の子たちは縄跳びをしており、その光景は高速度撮影機を使った活動写真の様に見えた。
さらに通りを進んでいくと14、5人の人だかりが目に入った。身なりの良い教養もありそうな40歳代の男が何か熱心に演説をしており、群集がその男を不規則な半円で取り囲んでいたのだった。
男は抑揚に富んだ口調で時に歌舞伎役者のような身振りを交え事の次第を聴衆に語っていた。


俺は妻を愛していた。殺すほど愛していた。しかし妻は浮気をした。妻の浮気のために商売も手に就かなくなった。それなのに妻は、巧みな嬌態や手練手管で事実を覆い隠し糊塗した──ピンクウォッシュした。その「妻のピンクウォッシュ」がますます俺を惹きつける。不貞という罪を犯している一方で、それゆえに綺麗に化粧し、赤い唇でニッコリと俺に微笑む魅惑的なピンクウォッシュに。この、俺を虜にする姿態を永久に留め、俺のものにしておきたかった。殺さずにはいられなかった。千枚通しを力任せにたたき込んだ。妻は、あの美しさで巧妙に糊塗した罪深いピンクウォッシュな微笑みを湛えながら死んでいった。俺は死体をバラバラにした。そして水道を出しっぱなしにして死体を冷やした。冷やし続けた。死骸は、予想通り、腐らなかった。死骸は屍蝋になった。「……女房の脂ぎった白い胴体や手足が、可愛い蝋細工になって了った」。俺は薬屋をやっている。薬屋には人体模型があるだろう? 俺の店では、妻の死体を人体模型として店先に堂々と飾っている。これ以上の死体の隠し場所なないだろう?  刑事だって気がつくまい。


私は男の話を聞いて気分が悪くなった。振り向くと、そこに薬屋があった。ガラス箱の上に女の顔があった……。身体がよろめき倒れそうになった。恐ろしくなり群集の側から離れた。見ると、一人の警官の姿が群集に交じっていた。警官は他の群集と同じようにニコニコ笑いながら男の告白を愉しげに聞いていた。

 


感想その他

この『白昼夢』は傑作だと思う。魅了された。
実は江戸川乱歩って子供向きの小説を子供の頃に読んだ以外は、ほとんど読んでいなかった。大人向けの長編で読んだのは『孤島の鬼』ぐらいか。なので、この『白昼夢』も初めて読んだのだが、幻想小説家としての江戸川乱歩の素晴らしさを発見したと少し大袈裟に言っておきたい。

特に印象的なのは以下の二つの部分。語り手の「私」がどこまでも続いている広い通りを歩いていると、少女たちが「アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……」と歌っているところ。なんですかこの「アップク、チキリキ、アッパッパア……」って。何語かもわからない「アップク、チキリキ、アッパッパア……」から主人公が突如として異界に踏み込んでしまったことがわかる。さらに少年たちが縄跳びをしている光景が「高速度撮影機を使った活動写真の様」ってエドワード・マイブリッジの運動している人間や走っている馬の連続写真を思わせるじゃないですか。そう思っていると、「アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……」という意味不明な声が、フィリップ・グラスの『フォトグラファー』の音楽のような効果を帯びてくるようだ。
そしてそのような白昼の中であっけらかんと猟奇殺人が語られる。平穏な日常生活の中に突如現れる猟奇、というよりも猟奇殺人が「普通の風景」になっている空間(スペース)に主人公が入り込んでしまった、というほうが適切だろう──ちょうど非正規職員や非常勤講師の雇い止め問題が「普通の風景」になっているネオリベラリズムと親和性のある大学が、そうであるように。

ところでエドワード・マイブリッジといえば、彼の犯した殺人事件に触れないわけにはいかない。
ウィキペディアによれば

1874年10月17日、マイブリッジは妻の愛人であるハリー・ラーキンス少佐を嫉妬にかられ、射殺した。 殺意が明らかであったにもかかわらず、裁判では正当防衛として無罪となった。 この殺人は、周囲からはフロンティア的な正義として黙認されたが、彼は判決後、中央アメリカへ去った。

 


Philip Glass. The Photographer Part 3 - Entire movement

 

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:白昼夢

 

 

フリオ・コルサタル : 占領された屋敷

概要

イレーネとぼくの兄妹は曾祖父母の代からの古い屋敷に住んでいる。奥行のある、前翼、後翼に分かれた広い屋敷に、イレーネとぼくの二人だけで住んでいる。仕事はする必要がなかった。所有している農場からの収入があったからだ。ぼくはフランス文学に傾倒し、イレーネは一日中編物をしていた。二人とも結婚に縁がなく、二人とももう中年の域に達しており、曾祖父母の代から続いている家系が途絶えてしまうだろうとぼくは考えている。
ある夜、ぼくは屋敷の書斎で物音を聞いた。くぐもった話し声のような鈍い音。同時に前翼から後翼をつなぐ廊下でも同じ音を聞いた。その音に反応したぼくは体ごとドアにぶつかって全体重をかけて一気に閉めた。鍵をかけ、閂もおろして、「それ」を食い止めた。
奥のほうは占領された。ぼくは妹のイレーネにそう報告した。「こちら側で暮らすしかないわね」とイレーネ。屋敷の半分を占領され、ぼくとイレーネは、物質的なあれこれを失っただけではなく、思い出までも失ったような気がした。ただ、屋敷が半分になったので掃除は楽になった。
それからしばらくたった夜、ぼくとイレーネは再びあの鈍い音を聞いた。音はだんだん大きくなっている。ぼくとイレーヌは内扉を閉め玄関に飛び込んだ。「こちら側も占領されてしまったのね」とイレーヌが言う。ぼくとイレーヌは着の身着のままの姿で屋敷の外へ出た。玄関の鍵は閉めた。

 

感想その他
屋敷(の半分)が得体のしれない何かに占領されてしまう、にもかかわらず、兄妹は屋敷の全領域が占領されるまで慌てず騒がず何食わぬ生活をしている。それをシュールと呼ぶのか不条理だと言うのか、あるいはそこに政治的意味(当時のアルゼンチンの政治について)を読み取るべきなのか。

解説ではフロイトの近親相姦タブーと「不気味なもの」を引いて楽園追放を読み解いているけど、兄妹が近親相姦の関係だという明白な証拠がいまいち読み取れなかった。やはり「占領」という言葉が気になる。もしそこに現実政治を示唆するならば、国外逃亡でもよさそうな気もするし(フランスの小説が手に入りにくくなっているのは政治的な理由なのか?)、さらに、イレーネが編物をしていて、最後は毛糸の糸が占領された側のドアの向こうまで伸びている……というところからミノタウロスの迷宮とアリアドネを思い出した。とすれば「ぼく」とイレーネはテセウスアリアドネのような関係(とすればこれが二人の近親相姦の証拠にもなる)になるけど、「ぼく」はテセウスのような英雄には見えないし、せっかくのアリアドネの糸玉も結局活用しなかった。なので、この説も却下すべきか。

 

データ

木村榮一 訳、『悪魔の涎・追い求める男』(岩波書店)所収 

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

 

 

太宰治 : 誰

マルコ福音書の中でイエスが「人々は我を誰と言ふか」「なんぢらは我を誰と言ふか」と弟子たちに問う場面がある。それを作者である「私」は、「たいへん危いところである」と分析する。 

エスは其の苦悩の果に、自己を見失い、不安のあまり無智文盲の弟子たちに向い「私は誰です」という異状な質問を発しているのである。無智文盲の弟子たちの答一つに頼ろうとしているのである。

そこから作家自身の自己分析になる。作家は聖書のイエスを真似して「なんじらは我を誰と言うか」と学生に問うてみる。すると偽者、嘘つき、おっちょこちょい、酒乱……といった答えが返ってくる。それらに交じってある落第生が「なんじはサタン、悪の子なり」と言う。他のネガティブなあれこれはいいとして、サタン(悪魔)はないだろう。作家は自分がサタンと言われたことが気にかかる。三鷹の小さな家で金が入ると遊び、金がなくなると少し仕事をして、少し金が入る、するとまた遊び……というようなことばかりやっている自分は本当にサタンのような大物なのか?
作家はサタンについて勉強する。自分がサタンでないという反証を掴んでおきたかったからである。  

  • 天使が堕落するとサタンになるというのは、話が上手すぎて危険思想だな。なぜってサタンが天使と同族だとすると、サタンは可愛らしい河童のようなものになってしまうもの。
  • 辞書引きで知ったかぶりをすると悪魔を表すギリシャ語はデイヤボロスで語源は「密告者」「反抗者」らしい。
  • サタンという言葉の最初の意味は、神と人との間に水を差す奴か。なるほど何事にも水を差してウンザリさせる。そして神と人を離反させるってわけだ。
  • でも旧約聖書の時代、サタンは神と対立する強い力をもっていなかった。旧約の時代ではサタンは神の一部でもあった。
  • ある神学者によれば、旧約以降のサタン思想はペルシアのゾロアスター教の影響を受けている。ザラツストラによる「人生は善と悪との間に起る不断の闘争」はユダヤ人にとってまったく新しい思想だったようだ。
  • ザラツストラの教義の影響によって、エホバが完成した一切の善をくつがえそうとするオルタナな霊的存在を可能にした。それがエホバの敵、すなわちサタンである。うん、簡明な説だ。
  • そして新約聖書の時代、サタンは神と対立し縦横無尽に荒れ狂う存在になる。名前も、デイアボロス、ベリアル、ベルゼブル、悪鬼の首かしら、この世の君、この世の神、訴うるもの、試むる者、悪しき者、人殺、虚偽の父、亡す者、敵、大なる竜……と膨れ上がる。
  • 塚本虎二によれば、サタンは一つの王国を持ち、手下の悪鬼たちを配下に置いている。そのサタンの王国の在り処は諸説あるが、重要なのは、サタンはこの地上を支配しようと企てており、出来る限りの悪を人に加えようとしていることである。

勉強した甲斐があった。自分は、こんなサタンほど偉くはない。自分は、こんなサタンほどの大物でなかった。なぜなら、こんな三鷹でぼんやりして、地元のおでん屋の女中に叱られまごまごしているような自分が、そんなサタンのような大層なものではないことは明らかだ。これによりかの落第生による私=サタン説を論駁した。
いや、まてよ。たしかに自分は絶対にサタンではないが、その手下の悪鬼についてはどうだろう。

わが名はレギオン、我ら多きが故なりなどと嘯ぶいて、キリストに叱られ、あわてて二千匹の豚の群に乗りうつり転げる如く遁走し、崖から落ちて海に溺れたのも、こいつらである。だらしの無い奴である。どうも似ている。似ているようだ。サタンにお追従を言うところなぞ、そっくりじゃないか。

サタンにへつらうといえば……そういえば、先輩に借金を頼み込んだとき、たしかに自分は(サタンに)へつらっていた。それを思い出すと、すぐさま(サタンであった?)先輩宅へ伺い、そのとき自分が先輩宛に書いた手紙を持っていますかと尋ねた。すると先輩が朱筆で添削した手紙を渡された──お前は嘘ばかり書いているから添削しておいた、と。

私はサタンでも悪鬼でもなかった。私は馬鹿だった。

 

感想その他
ゆるい小説なのか、ゆるさを装った狡知な小説なのかは太宰治をほとんど読んでいないので判断ができないのだが、ゆるいと思ったのは確か。ゆるいと思ったのは、どこまでが完全なフィクションで、どこまでが太宰治自身に降りかかった出来事をそのまま書いているのかが、いまいちはっきりしないからだが、もしかしてそれも(それが)狙いなのかもしれない。

とくに面白かったのが、先輩に借金を頼んだ「私」の手紙が、先輩の論評付きで添削され、それが読者に差し出されるところだ。「私」の「狡智の極を縦横に駆使した手紙」の原文をまず読者に読ませ、次に先輩の論評がカッコつきで入った同じ手紙をもう一度読者に読ませる。ここ、前衛小説のようでもあるし、単に枚数を稼いでより多くの金をせしめているようにも思える。そのどちらともとれるようなゆるさに、独特の味がある。

さらに、この『誰』という小説に出てくる先輩は、実在した山岸外史という評論家らしく、ウィキペディアによれば

 『人間太宰治』の中では、太宰の短篇「二十世紀旗手」の冒頭に掲げられた有名なエピグラフ「生れて、すみません。」が、山岸のいとこにあたる詩人寺内寿太郎の一行詩「遺書」(かきおき)の剽窃であることを明らかにした。寺内は「二十世紀旗手」を読んで山岸のもとに駆けつけるなり、顔面蒼白となって「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた」と叫び、やがて失踪してしまったという。

 とすれば、やっぱりこの人、馬鹿じゃなくてサタンだよな、と思った。

 

データ

青空文庫で読んだ。

図書カード:誰

フリオ・コルタサル : 夜、あおむきにされて

概要

両脚の間でオートバイのエンジンが唸る。朝のコースは快適だった。が、気持ち良すぎて気を取られていたのかもしれない。オートバイを心地よく飛ばしていた「彼」は事故で横転した。オートバイの下敷きになっている彼を数人の若い男たちが引き出し、あおむけにして彼を近くの薬局に運んだ。「あおむけにしたまま運び込むんだ」と男たちは言っていた。

病院に移され、彼は怪我に相応の処置を受ける。ベッドで寝ていると……彼は夢の世界に移動した。沼沢地でアステカ族の人間狩りから彼は逃げていた。戦いの匂いがし、花の戦が始まっていた。本能的に腰帯のナイフに手をやった。

彼らはある時期になると、敵の男たちを

狩りに出るが、それを花の戦と呼んでいた。 

 アステカ族の人間狩りの恐怖から逃れようと彼は身を潜め、頃合いを見計らって飛び出した。すると……隣のベッドの患者が、そんなに暴れるとベッドから落ちますよ、と彼に注意してくれた。看護婦がやってきて彼に注射をした。

病室でスープを飲み、あおむけになり、身体の力を抜く。……花の戦の最中で彼は人間狩りをするアステカの戦士に追われていた。暗闇の中だった。堆積した枯葉と泥の中に足がめり込む。敵の気配が感じられる。突然、叫び声が聞こえた。彼は、襲い掛かってきた敵の胸にナイフを突き立てた。とたんに身体を快感が走った

以下、病室のシーン → 花の戦のシーン → 病室のシーン → 花の戦のシーンの繰り返し

そして彼はアステカ族に捕まり、あおむけにされたまま担ぎ上げられ、祭壇に運ばれる。祭壇の石は生贄の血に染まっていた。次の生贄は彼だった。あおむけにされて目を閉じている彼のそばにナイフを持った男が近づいてきた……そして彼の両脚の間では「金属製の昆虫」が唸りをあげていた。

 

感想その他

 あおむけにされている状態の「彼」が夢と現実を彷徨う、というよりも、夢と現実が切り替わる、と言った方が近いのかもしれない。それもただのこれまで見てきた夢と違って「匂いのする夢」であった。「彼」は「戦いの匂いがする」と表現する。異質な夢の中は「聖なる時間」で、その「聖なる時間」の間中、花の戦と呼ばれる人間狩りによって「彼」は追われ続ける。そしてついに「彼」は捕らえられ、あおむけにされる。

幻想小説なので、そういう状況の中で、そういうことが起こっている、と素直にそう採ればいいのだけど……なんか読み解きたいよね。とくに執拗に繰り返される「あおむけにされる」ってどんなモチーフなんだろうか? 

 

データ

木村榮一 訳、『悪魔の涎・追い求める男』(岩波書店)所収 

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)